土の器

宮本牧師のブログ

エッセイ

愛の本質

ヨハネの福音書は21章ありますが、12章からキリストの最後の1週間が始まります。ですから、ヨハネは福音書の半分を費やして、キリストの最後の一週間を記録していることになります。ここにヨハネが本当に伝えたかったことが記されているのです。 12章は、ラ…

呼ぶべき御名

「呼ぶべき御名」別の言葉で表現すれば、「呼ぶことがゆるされた御名」ということになります。十戒の中に「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。」とあることから、次第にユダヤ人は主の御名を口にすることを畏れ、その名を呼ばなく…

オリエンテーション

エマオ途上の二人の旅人について、一人は「クレオパ」という名前が記録されていますが、もう一人はだれであるのかわかりません。聖書学者たちは、福音書を記したルカ自身であろうとか、クレオパの妻であろうとか考えるのですが、ルカは、そこに私たちが自分…

偉大ないのちの奥義

オランダの巨匠レンブラントはエマオの物語を好んで描いていますが、「エマオの晩餐」は彼の代表作の一つです。これは、弟子たちの目が開かれ、見知らぬ旅人だと思っていたその人が復活されたイエスだと分かったという、まさにその瞬間を描いたものです。 こ…

天国への道

オズワルド・スミスというカナダの伝道者がこう言っています。「聖書の中で最も素晴らしい書は、ヨハネの福音書です。そしてヨハネの福音書の中で最も素晴らしい章は3章です。その3章の中で最も素晴らしい節は16節です。」 「永遠のいのちを」について、3つ…

イエス・キリストの系図

聖書の中で罪の記されていない章がどれくらいあるかご存知でしょうか。聖書は旧新約わせて66巻。旧約39巻、新約27巻(三九27と覚えます)。章数は1189章(いいやくと覚える)です。その1189章の中で、罪が書かれていない章はたったの4章だけです。創世記の…

神が人なられた理由

クリスマスの神秘、神が人となられた理由について、3つお伝えします。 第1に、神が人となられたのは、父なる神を現すためです。愛の「見える化」と言うこと。イエスは言われました。「わたしと父とは一つである。「わたしを見た者は、父を見たのである」と。…

墓を背にしたラザロと墓に向かうイエス

ラザロの墓が開かれると、イエスは大声で「ラザロよ、出て来なさい」と叫ばれました。イエスの神々しい声が響きました。何が起こったでしょう。「すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は覆いで包まれていた。イエスは人々…

彼らが信じるようになるために

ラザロの墓の前に置いてあった石が取りのけられると、イエスは天を仰いで祈り始められました。きっとそこにいた多くの人は、石を動かすことやその後どうなるかに気を奪われていたにちがいありません。しかし、ヨハネはそこで祈られるイエスの声を聞き逃さな…

憤り

イエスの涙に前後して、ヨハネがくり返して使う言葉があります。それは「憤り」という言葉です。33節には、「イエスは・・・霊に憤りを覚え、心を騒がせて」とあり、38節にも、「イエスは、再び心のうちに憤りを覚えながら」とあります。日本語には訳しにくい言…

どうしてほしい? 何が欲しい?

昨年の9月でしたが、福岡県糟屋郡志免町にあるホスピス・栄光病院の名誉ホスピス長であり、牧師でもある下稲葉康之先生が天に召されました。先生はホスピス(終末期ターミナルケア)に関わって40年、「イエス・キリストのいのちこそ、死に向き合う人に最も必…

一番短い節

イエス・キリストは涙を知っておられます。ヨハネの福音書は一貫してイエスが神の子であることを証しする書ですが、イエスが疲れ、渇き、涙する姿を描くことをためらいません。彼はイエスが人となれた神の子であることを大胆に証しするのです。 旧新約聖書66…

私に結びつく者は必ず生きる

イエスがベタニアに到着された時には、ラザロは墓に葬られて、すでに4日経っていました。高温多湿の中東では、その日のうちに死者を葬るのが常でした。そして死後一週間は、喪に服し、弔問客が訪れます。「マルタとマリアのところには、兄弟のことで慰めよう…

動かなかった理由

過越祭が近づいた頃、エルサレムを離れていたイエスのもとに、ベタニア村のマルタとマリアの姉妹から使いがやって来て言いました。「主よ、あなたが愛しておられる者が病気です。」マルタとマリアの兄弟ラザロが危篤との知らせです。 イエスがいたヨルダンの…

ベタニアを愛された

ラザロが危篤でした。二人の姉は「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と、それだけをイエスに伝言しています。 ここから、ヨハネが伝える7つのしるしの最後にして最大のしるし、ラザロの復活の物語が始まりますが、奇跡の舞台となるベタニア村…

そもそも自分は

「そして、イエスは再びヨルダンの川向こう、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた場所に行き、そこに滞在された。」 バプテスマのヨハネのことを覚えていますか。彼は、自分の所に悔い改めのバプテスマを受けに来る群衆に向かって、「私の後から来る方は偉…

金剛不壊の杖

9月19日は、大槻筆子先生の召天30周年記念日でした。聖イエス会のメンバーは筆子先生のことを霊の母と慕い、愛と尊敬を込めて「霊母」とか「お母さま」と呼んできました。30年の年月が流れ、霊母を知らない人が多くなっていますので、霊母のことをもっと知っ…

神の時

NHKの「こころの時代」という番組で、「旧約聖書『コヘレトの言葉(伝道者の書)』をめぐる対話」という放送がありました。批評家の若松英輔さんはカトリック信者、聖書学者の小友聡先生はプロテスタントの牧師、この二人が「伝道者の書」をめぐって対談する…

私は何も知らないのだ

「世の中には、すぐにわかるものとすぐにわからないものの二種類がある。……すぐにわからないものは……何度か行ったり来たりするうちに、後になってすこしずつじわじわとわかりだし、『別もの』に変わっていく。そして、わかるたびに、自分が見ていたのは、全…

神の時計

私たちが時計を見るのは、今の正確な時間を確認するためですが、もっと重要なのは、次の予定まであと何分かを確認するということです。時間にうるさい日本人であればなおさらのことです。時間まであと2時間もあれば、のんびりお茶でもできるでしょうか。あと…

私の羊飼い

詩篇23篇をよく見ると、4節の「死の陰の谷」を境に、それまでは「主は」と告白していたダビデが、「あなたが」「あなたの」「あなたは」と親しく呼びかけるようになるのに気がつきます。 その昔、フランス軍のチャプレンが戦場に赴く兵士たちを、詩編23篇を…

一匹を見つけるまで

イエス・キリストこそ、私という迷える羊のためにいのちを捨てくださった良い牧者です。 「九十九匹の羊」の譬えは有名ですが、正確には、いなくなった一匹の羊、つまり百匹目の羊の物語です。そして、その一匹とは私たち一人一人のことなのです。聖書の中で…

賛美しつつ主の門に

聖書の時代、一つの村の羊は共同の囲いに入れられることが多かったようですが、この共同の囲いを門番が守ります。きっと羊飼いたちが、入れ替わりで囲いの番をしていたのでしょう。羊の囲いを守る門番は、狭い門に座り、「わたしは門です」と言って、命がけ…

それぞれの名を呼んで

ヨハネの福音書10章の前半は、イエスの一連の譬え話を受けて、群衆が「彼は悪霊につかれておかしくなっている」「いや、見えない人の目を開けることを、悪霊ができるだろうか」と言い合うところで終わります。ということは、9章で学んだシロアムの池の物語は…

あなたの御手のわざ

私たちは地のちりで作られた土の器に過ぎません。私たちには、イエスが何者で、自分が何者であるかがわかっているのでしょうか。ヨハネの福音書9章は、もうわかっている、見えているというところに罪が残るとの言葉で終わります。人は知っていると思った途端…

太陽を見ない三種類の人

仮庵の祭の直後、まだ多くの人で賑わっていたと思われるシロアムの池で起こった生まれつきの盲人の癒しは、すぐにエルサレムの住民の知るところとなりました。その日が安息日であったこともあり、元盲人は会堂に呼び出され、パリサイ人たちから事情を聞かれ…

苦しみの意味と目的

人間は、だれでも裸で生まれて来るわけですが、必ずしも平等にスタートするわけではありません。生まれた時から障害を持っていたと言う人もいます。ある人は病気で、ある人は事故に巻き込まれてと言うことかもしれません。現代では、心を病み、精神を患うと…

水の福音書

ヨハネ福音書は、別名「水の福音書」とも呼ばれます。生けるいのちの水の働きについて多くことが教えられているからです。ヨハネ3章、イエスはニコデモに言われました。「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」ヨハネ4章…

シロアムへの道

イエスが語られた「わたしを遣わされた方のわざを行う」とは、何かの行為ではなく、イエスに対する信仰です。そこでイエスは、地面に唾をして、その唾で泥を作り、盲人の目に塗られました。 このイエスの行為が何を意味し、イエスが誰であるかがわかるでしょ…

君の名は

ヨハネの福音書は、8章でくり広げられた論争の前半と後半に、二度に渡って「あなたはだれなのですか」(25節)、「あなたは、自分を何者だと言うのか」(53節)というイエスへの究極の問いかけをユダヤ人に語らせ、その間違いのない答えへと私たちを導きます…