土の器

宮本牧師のブログ

台所の祈り

メッセージ「台所の祈り」(三斗の粉をふくらすまで)
聖書 マタイの福音書13章33−35節
マタイの福音書シリーズ(80)

イエスの天の御国のたとえ話シリーズ。今日はたった1節しかないパン種のたとえ話です。詳訳聖書では次のように訳されています。
「天の国はパン種〈すっぱい練り粉〉のようなものである。女がそれを取って三サトン〈三十六リットル〉の食べ物〈麦粉〉の中に潜ませておくと、全部が発酵する。」
このたとえ話を何度も読みながら、創世記18章の物語を思い出しました。アブラハムは3人の旅人をもてなすのに、サラに3セアの小麦をこねてパンを作るように頼みました。それは半端ない量で、100人分のパンで祝宴でも開くことのできる量でした。
創世記は3セア、マタイの福音書では3サトンという単位でその容量が示されています。
聖書の巻末にある、度量衡の一覧を見ると、1セアは7.6Lなので3セアで約23L、1サトンは13Lなので3サトンで39Lになり、厳密なことを言えば、実際の量にはちがいがありますが、いずれにしても一家族で食べられる量ではなく、有り余るほどの豊かさを表す量です。口語訳聖書では、この「三サトンの小麦粉」を「三斗の粉」と訳していました。
イエスが「三サトンの小麦粉(三斗の粉)」と語られた時、そこに集まっていた人々は、すぐにアブラハムの物語を思い出したことでしょう。あの日、アブラハムが主の使いをもてなすためにサラに用意してもらった3セアのパンは、やがて来る神の国の祝福を先取りするものだったからです。イエスはアブラハムの物語をオマージュするように、たとえ話に取り込むように三斗の粉がふくらむ様子を示しながら、「天の御国はパン種に似ています」と語られたのです。
福音というパン種が、私たち一人ひとりの存在を通して、この世界に、この時代に練り込まれ、浸透し、やがて内側から変化させ、神の国が大きくふくらみますように。
「満たせ永遠のいのちを、聖徒の数をば、三斗の粉をふくらすまでは、ふくらすまでは。祈れ進めて満たせ、限りなき命の、三斗の粉生かす時こそ近し。」(霊歌77番)

8月も最後の礼拝です。各地で災害が続いていますが、被災地のためにも祈りをささげました。今週も礼拝の恵みに感謝。

 

一人ひとりが小さな始まりに

イエスは言われました。「天の御国はからし種に似ています。人はそれを取って畑に蒔きます。どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなって木となり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るようになります。」実際のクロガラシは草であって、木にはなりません。鳥が来て枝に巣を作ることもありません。これは誇張表現でしょうか。いいえ、これは植物の話ではなく、神の国の話です。神の国でそれくらい生長する可能性を秘めているのです。
「毒麦のたとえ」はマタイだけが記したたとえ話でしたが、「からし種のたとえ」はマタイ、マルコ、ルカがそろって記録しています。ただたとえ話が置かれている場所にちがいがあります。マルコでは、成長する種のたとえとセットになっていて、種の成長する力が強調されています。ルカは、イエスが安息日に18年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全く伸ばすことのできない女を癒やされる奇跡を受けて、「からし種のたとえ」が語られ、神の国はいつも一人から始まることが強調されています。つまり、ルカの記事は、私たち一人ひとりが小さな始まりになり得ることを教えています。
「腰が曲がった」とは神を見上げることができない状態です。それは神の恵みや天の御国を仰ぎ見る余裕を失った人の姿です。私たちも何かに縛られ、腰が曲がり、神の恵みを仰ぎ見る心を失っていないでしょうか。もう一度、十字架を仰ぎ見させていただきましょう。「イエスは彼女を見ると、呼び寄せて、『女の方、あなたは病から解放されました』と言われた。そして手を置かれると、彼女はただちに腰が伸び、神をあがめた。」

豊中の教会で宣教ボランティアがもたれています。祝福を祈ります。
「あなたの初めは小さくあっても、あなたの終りは非常に大きくなる。」

キリストの生活を再現する

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
ルカの福音書9章23節

今日は礼拝のメッセージで開かれたゼカリヤ書4章10節の言葉から、「小さな始まり」の証をいくつか紹介していただいた後、『言泉集』第6巻「リバイバル説教集」から「キリストの生活を再現」するを学びました。
今日から豊中の教会で宣教ボランティアが始まっています。4日間の働きが豊かに祝されますように。

 

小さな始まり

礼拝メッセージ「小さな始まり」
聖書 マタイの福音書13章30−35節
マタイの福音書シリーズ(78)

聖地イスラエルで、早春を告げる花といえば、桜に似たアーモンドですが、春の訪れと共に、ガリラヤ湖畔には、菜の花に似た黄色いクロガラシの花が一面に咲きます。
聖書に出てくるからし種とはクロガラシのことだと考えられていますが、イエスは、黄色い絨毯のように見える、クロガラシの花が群生する光景を見つめながら、天の御国について語られたのです。
からし種は、「どんな種よりも小さい」と言われていますが、これは植物学上、ミニマムと言っているのではなく、古来イスラエルではよく用いられたことわざで、「極めて小さい」ということを示す比喩的な表現です。実際、イエスの時代には、人の手で蒔かれる種としては最小のものと考えられていたのかもしれません。しかし、イエスは、それがどんなに小さな始まりであっても、そこにいのちが宿っていれば、その小ささは、宇宙的な広がりをもつことを示されたのです。
考えてみれば、イエスは、宇宙的広がりをもった小さな始まりについて、しばしば語っておられます。渇いた者に与えた一杯の水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が流れ出しました。貧しいやもめが神殿の献金箱に投げ入れた2枚のレプタ銅貨(当時最も小さな単位の銅貨)は、イエスの目には誰がささげたよりも多く映り、ささげ物の模範とされています。また、主人から預かった1タラントには、無限の可能性と責任が伴いました。そして、最も小さい者たちの一人に対してなされる愛のわざは、イエスご自身に対してなされたのと同じだとも言われたのです。どれも小さな始まりです。
聖書には次にように書かれています。ゼカリヤ書4章10節、リビングバイブルで。「小さな始まりを軽んじてはならない」と。

今週も礼拝の恵みに感謝。

 

だれも滅びることなく

マタイだけが畑の毒麦のたとえを記録した理由がいくつか考えられます。まず初代の教会が直面していた問題です。ユダヤ教との緊張関係と分離、具体的には律法をどう扱うか、異邦人をどう迎えるか、実際に御国の子らとはだれのことなのかという、自らのアイデンティティに関わる問題がありました。つまり教会とは何かというテーマで、これはマタイ福音書の主要テーマでもあります。さらに、終末に関する関心も、マタイの特徴で、このたとえ話は、なぜ神は収穫の時(世の終わり)まで、裁きを行われないのかという問いかけへの神学的な答えです。
そんなマタイの視点、教会論と終末論からこのたとえ話を読めば、毒麦が抜かれなかった理由が見えてきます。神は、人が罪を悔い改めて神のもとに立ち返り、もとの良い麦となることを待っておられるのです。植物学的には、毒麦が麦に変わることはありません。しかし、人は変わるのです。キリストにあって、人は変わることができるのです。良い麦という本来あるべき自分になることができるのです。
毒麦を抜かない理由がここにあります。「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
神の忍耐と愛に感謝しましょう。しかし、次のことを忘れてはいけません。神は毒麦を放置しているのではなく、収穫の時が来るという厳かな神の審判が告げられています。ですから、悪がはびこっている世界の現実を見て嘆くことがあっても、不平を言わず、人を裁かず、公正な裁きを行ってくださる義なる神にすべてをゆだねましょう。そして、神の畑の良い麦として、神の恵みのうちに、日々成長させていただきましょう。急がなくても大丈夫です。種の力を信じて、焦らず、慌てず、あきらめず。やがて、その日が来たなら、「正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。」それは義の太陽であるキリストを見つめているからです。
ああその朝、義の日は出て輝かん。ああその朝、救い主に我ら会わん。

 

目を上げて畑を見なさい

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
ヨハネの福音書4章34−35節

礼拝でマタイの福音書13章からたとえ話を学んでいますが、イエスは人々が日常的に見、経験している出来事を通して、天の御国の奥義を語り、弟子たちにそれを示されました。13章の7つのたとえは、舟の上から海辺にいる群衆に向かって語られるイエスが、近くで種蒔きをしている人を見つけて話し始めたことから、種に関わるたとえから始まりました。今日はそんな畑と種つながりで、ヨハネの福音書4章から、イエスが見ておられた夢の畑について、御言葉から学びました。
熊本、千葉のために、来週豊中でもたれる宣教ボランティアのために、秋期聖会までの残されたすべての集会のために、今週も祈りが積まれました。

毒麦を抜かない理由

礼拝メッセージ「毒麦を抜かない理由」
聖書 マタイの福音書13章24-30,36-43節
マタイ福音書シリーズ(78)

三浦綾子さんが『毒麦の季』という短編集を書いています。5つの短編が入っていますが、書名の『毒麦の季』が5番目の作品です。知らぬ間に麦畑に紛れ込み、はびこっていく毒麦のように、容赦なく人の心をむしばんでいく悪意の種。両親の不和から家庭が破綻し、追い詰められた少年が起こす悲惨な事件を描くこの作品は、今日の聖書箇所から着想を受けた作品とされています。
畑の毒麦のたとえは、マタイの福音書だけに記されている、マタイ独自のメッセージで、彼が伝えたかったメッセージとも言えます。
ある人が良い麦の種を畑に蒔きましたが、人々が眠っている間に敵が来て、毒麦を蒔いていきました。麦が実り始めると毒麦が現れます。「毒麦を抜きましょう」という僕たちの提案に対し、主人は良い麦まで抜いてしまうといけないからと、収穫の時までそのままにしておくように命じました。
ここで「毒麦」と訳されている「ジザニア」とは麦によく似たイネ科の雑草のことで、ジザニア自体には毒はないのですが、ジザニアと一緒に臼で挽いた麦粉のパンを食べると頭痛やめまいなどを引き起こすことから毒麦と呼ばれました。
弟子たちにもたとえの意味がわからなかったのか、群衆を解散させた後、イエスにその意味を尋ねます。36節以下が、イエスによるたとえの解説です。
良い種を蒔くのは人の子(イエス・キリスト)です。畑は世界、良い麦は御国の子ら、毒麦は悪い者の子ら、毒麦を蒔いた敵は悪魔で、収穫は世の終わり、刈る者は御使いたちです。収穫の時が来ると、毒麦が火で焼かれるように、悪い者の子らは火の燃える炉に投げ込まれます。しかし、正しい人(御国の子ら)は天の御国で太陽のように輝くというのです。
前の種を蒔く人(4つの畑)のたとえのように、イエスの解説だけですっきりしない感じがするのは私だけでしょうか。前のたとえように単純ではなく、やや込み入った内容になっている気がします。マタイしか書かなかった、マタイが伝えたかったメッセージとは何だったのでしょうか。

種を蒔く人の眼差し

種を蒔く人はどうして道端や岩地、茨の中に種を蒔いたのかということを考えてみました。それは現代の合理的で生産性を上げるという考えで言えば、非効率と言わざるを得ません。なぜ、そんな無駄なことをしたのかと思ったのです。
イエス時代のパレスチナでの、一般的な農法では、まず地面に種を撒き散らし、その後にロバや牛に木製の鍬を引かせて地面を浅く耕し、土をかぶせていたようです。つまり、種を蒔く時点では、どこが良い土で、どこに岩や茨の根が隠れているかわからなかったのです。また畑の境界線も曖昧でした。つまり、畑全体を豊かなに実らせるために、種を蒔く人は惜しみなく、畑いっぱいに広く漏れなく種を蒔いたのです。
そう考えると、イエスがこのたとえで伝えたかったことは何か、見えるものが変わってきます。私はこのたとえ話を読む度に、またこのテキストからメッセージで語る度に、私はどの土地なのだろうかと考え、またあなたはどの土地ですかと問いかけてきました。それは自己吟味を促す意味ではまちがいではありませんし、イエスの解説されたたとえの意味からも正しいことです。しかし、種を蒔く人の眼差しや期待ではありませんでした。きっと皆さんも、このたとえ話を前にして、自分はどの土地なのだろうかと、自分を分類し、自己診断してきたのではないでしょうか。頑なな私の心は道端のようで、御言葉を聞いても、気がつけばもう忘れていた。信仰の薄い私の心は岩地のようで、御言葉を聞いて喜んで受け入れたかと思えば、根がないのですぐに枯れてしまい投げ出してしまう。神様以外のもので満ちている私の心は、茨にふさがれ窒息しているようで、全然実を結ばない。そんな自分の姿に失望し落胆してしまいます。しかし、種を蒔く人はそれで終わりにはしないのです。農夫は固く踏み固められた道端を耕し、畑に埋まっていた岩を取り除き、茨も根こそぎ掘り起こして、良い土地に変えて、百倍、六十倍、三十倍という実を結ばせたいのです。こうして、私たちが無駄だ、失敗だと見ていたことが、圧倒的な実りへと変えられていくのです。
そんな種を蒔く人の視点から、このたとえ話を学ぶ時、「主よ、あなたがいのちの種を蒔いてくださった私の心を、豊かな実を結ぶ良い畑にしてください」との祈りが生まれてきます。道端、岩地、茨の中、いろんな時があると思いますが、私たちはいつも「良い畑になりたい」と祈り続ける者でありたいのです。良い畑になりたいと願うその心のうめきこそが、聖霊によって私の心が新しく耕され始めている証しなのですから。蒔かれた種は無駄にはならないと信じましょう。