土の器

宮本牧師のブログ

トマスのために

復活されたイエスが弟子たちに現れてくださった時、そこに居合わせなかった弟子がいました。デドモと呼ばれるトマスです。あの日から1週間、トマスはどんな気持ちで弟子たちのところにとどまり続けたのでしょうか。 復活されたイエスは、弟子たちに「ガリラヤで会おう」と語っておられましたので、弟子たちはガリラヤに行くべきでしたが、少なくとも1週間は、エルサレムに留まっていたことになります。これは想像ですが、弟子たちはトマスのために、ガリラヤ行きを延期していたのかも知れません。トマスが信じられるようになるまで、トマスと一緒にいたかったのです。
片柳弘史神父が『こころの深呼吸』という本の中で、こんなことを書いていました。「耐えられないほどひどい苦しみも、誰かがそばにいて手を握ってくれるなら耐えられる苦しみに変わります。愛する人の苦しみをなくすことはできなくても、耐えられる苦しみに変えることならできるのです。」
この詩は先生の体験から来ているそうです。まだ若い頃、マザー・テレサに会うためにインドに行きましたが、カルカッタコルカタ)で結核を発病し、死ぬ寸前の苦しみに遭います。苦しみのあまりパニックに陥った時、一人の神父がずっと彼のそばにいてくれました。医師も薬もありがたかったが、一番うれしかったのは、その神父がそばにいてくれたことであったというのです。
トマスはいたずらに「信じない」と言ったのではなかったのでしょう。信じないのなら、弟子たちの集まりから離れて行ったはずです。でも彼はそこに留まり続けました。弟子たちも、彼を責めることなく、彼の耐えられない苦しみを、そばにいて、耐えられる苦しみに変えていったのです。復活の主と出会った弟子たちには、それができたのです。それから8日後、イエスは再び弟子たちの真ん中に立たれました。トマスに注がれたイエスの眼差し。彼は畏敬の念に打たれ、イエスを礼拝します。「私の主、私の神よ」と。

 

わが聖霊体験

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
ヨハネの黙示録1章12-13、17-18節

昨日4月17日は大槻筆子先生の内住記念日でしたが、今日は『エルサレムをめざして』から、その証「わが聖霊体験」の前後の記事を紹介し、祈りに導かれました。
エルサレムへ、エルサレムへ! 行列は増し加えられ、ひろがっていきます」とのビジョンが実現しますように。

くするぶる燈心

「二人は暗い顔をして……」。主の十字架という、凍りつくような経験が、二人の弟子の心を曇らせていました。彼らは言います。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」この箇所の時制は、すべてが過去形で語られています。「もうすべてが終わってしまった」という感じです。かつては心躍らせて信じていましたが、今はもうそうではないのです。信仰はいつも進行形でなければなりません。 しかし、そんな彼らの折れて消えそうな信仰のともし火を主は再び燃やしてくださいます。主は痛んだ葦を折ることも、くすぶる燈心を消すこともないお方だからです。
「ああ、物分りが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」こう言って、主はモーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自身について書いてあることを解き明かして行かれました。弟子たちの心に再び希望の灯りが点されました。そして、その夕べ、食卓を囲み、主がパンを裂かれたとき、ついに彼らの目が開かれたのです。ここに心燃やされる出会いがあります。 

神の都に喜びを

今週も祈祷会を大切に。
御言葉をシェアします。詩篇46篇4節
メッセージ「神の都に喜びを」

堺に来て3回目の祈祷会。1回目は受難週の黙想会。2回目は京都聖会の映像だったので、普通の祈祷会は最初になります。祈り深い教会を目指して、祈祷会も再出発です。
今日は『言』新年号に掲載していただいたメッセージを、堺教会の皆さんと学びました。源泉に帰って行くことができますように。

歓喜、狂喜、陶酔、有頂天

キリストが復活されたイースターの夕べのことでした。弟子たちはユダヤ人を恐れ、自分たちのいる家の戸に鍵をかけ、絶望の中に座り込んでいました。するとそこへイエスが来て真ん中に立ち、「シャローム(平安があなたがたにあるように)」と言われたのです。イエスは十字架の上で付けられた手と脇の傷を弟子たちにお見せになりました。すると「弟子たちは主を見て喜んだ」と聖書に書かれています。
詳訳聖書では、この喜びが次のように訳されています。「弟子たちは主を見て喜び<歓喜、狂喜、陶酔、有頂天>に満たされた。」欣喜雀躍する弟子たちの姿が生き生きと描かれています。私たちの罪のために十字架で死に、三日目に復活されたキリストこそ、私たちの喜びの源泉なのです。
キリスト教の中心は、イエス・キリストの十字架と復活です。別の言葉で言えば、十字架によって罪を赦された平安と、死の力が打ち破ぶられた驚きです。平安と驚き、これこそイースターのメッセージ、そしてキリスト教の原点です。十字架によって私たちの罪が赦されたという平安、キリストが死を打ち破り、今も生きておられるという驚き。ここにこそ、私たちの人生を再建させるに必要な知恵が、希望が、十分に備えられているのです。主が復活された日曜の朝、私たちは毎週、二千年前のあの朝のように、平安と驚きの神に出会うことができるのです。この平安と驚きを失うことがありませんように。
エスは来て私たちの悲しみと痛みの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。<歓喜、狂喜、陶酔、有頂天>に満たされた!

 

生ける水の川としてください

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
雅歌4章15節(口語訳)、エゼキエル47章9、12節

今週は転任があり、堺教会では見ていただけていなかった年会聖会の第2集会のメッセージをご覧いただきました。聖会で語られた大切なメッセージが教会に浸透しますように。