土の器

宮本牧師のブログ

小さな始まり

礼拝メッセージ「小さな始まり」
聖書 マタイの福音書13章30−35節
マタイの福音書シリーズ(78)

聖地イスラエルで、早春を告げる花といえば、桜に似たアーモンドですが、春の訪れと共に、ガリラヤ湖畔には、菜の花に似た黄色いクロガラシの花が一面に咲きます。
聖書に出てくるからし種とはクロガラシのことだと考えられていますが、イエスは、黄色い絨毯のように見える、クロガラシの花が群生する光景を見つめながら、天の御国について語られたのです。
からし種は、「どんな種よりも小さい」と言われていますが、これは植物学上、ミニマムと言っているのではなく、古来イスラエルではよく用いられたことわざで、「極めて小さい」ということを示す比喩的な表現です。実際、イエスの時代には、人の手で蒔かれる種としては最小のものと考えられていたのかもしれません。しかし、イエスは、それがどんなに小さな始まりであっても、そこにいのちが宿っていれば、その小ささは、宇宙的な広がりをもつことを示されたのです。
考えてみれば、イエスは、宇宙的広がりをもった小さな始まりについて、しばしば語っておられます。渇いた者に与えた一杯の水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が流れ出しました。貧しいやもめが神殿の献金箱に投げ入れた2枚のレプタ銅貨(当時最も小さな単位の銅貨)は、イエスの目には誰がささげたよりも多く映り、ささげ物の模範とされています。また、主人から預かった1タラントには、無限の可能性と責任が伴いました。そして、最も小さい者たちの一人に対してなされる愛のわざは、イエスご自身に対してなされたのと同じだとも言われたのです。どれも小さな始まりです。
聖書には次にように書かれています。ゼカリヤ書4章10節、リビングバイブルで。「小さな始まりを軽んじてはならない」と。

今週も礼拝の恵みに感謝。

 

だれも滅びることなく

マタイだけが畑の毒麦のたとえを記録した理由がいくつか考えられます。まず初代の教会が直面していた問題です。ユダヤ教との緊張関係と分離、具体的には律法をどう扱うか、異邦人をどう迎えるか、実際に御国の子らとはだれのことなのかという、自らのアイデンティティに関わる問題がありました。つまり教会とは何かというテーマで、これはマタイ福音書の主要テーマでもあります。さらに、終末に関する関心も、マタイの特徴で、このたとえ話は、なぜ神は収穫の時(世の終わり)まで、裁きを行われないのかという問いかけへの神学的な答えです。
そんなマタイの視点、教会論と終末論からこのたとえ話を読めば、毒麦が抜かれなかった理由が見えてきます。神は、人が罪を悔い改めて神のもとに立ち返り、もとの良い麦となることを待っておられるのです。植物学的には、毒麦が麦に変わることはありません。しかし、人は変わるのです。キリストにあって、人は変わることができるのです。良い麦という本来あるべき自分になることができるのです。
毒麦を抜かない理由がここにあります。「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
神の忍耐と愛に感謝しましょう。しかし、次のことを忘れてはいけません。神は毒麦を放置しているのではなく、収穫の時が来るという厳かな神の審判が告げられています。ですから、悪がはびこっている世界の現実を見て嘆くことがあっても、不平を言わず、人を裁かず、公正な裁きを行ってくださる義なる神にすべてをゆだねましょう。そして、神の畑の良い麦として、神の恵みのうちに、日々成長させていただきましょう。急がなくても大丈夫です。種の力を信じて、焦らず、慌てず、あきらめず。やがて、その日が来たなら、「正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。」それは義の太陽であるキリストを見つめているからです。
ああその朝、義の日は出て輝かん。ああその朝、救い主に我ら会わん。

 

目を上げて畑を見なさい

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
ヨハネの福音書4章34−35節

礼拝でマタイの福音書13章からたとえ話を学んでいますが、イエスは人々が日常的に見、経験している出来事を通して、天の御国の奥義を語り、弟子たちにそれを示されました。13章の7つのたとえは、舟の上から海辺にいる群衆に向かって語られるイエスが、近くで種蒔きをしている人を見つけて話し始めたことから、種に関わるたとえから始まりました。今日はそんな畑と種つながりで、ヨハネの福音書4章から、イエスが見ておられた夢の畑について、御言葉から学びました。
熊本、千葉のために、来週豊中でもたれる宣教ボランティアのために、秋期聖会までの残されたすべての集会のために、今週も祈りが積まれました。

毒麦を抜かない理由

礼拝メッセージ「毒麦を抜かない理由」
聖書 マタイの福音書13章24-30,36-43節
マタイ福音書シリーズ(78)

三浦綾子さんが『毒麦の季』という短編集を書いています。5つの短編が入っていますが、書名の『毒麦の季』が5番目の作品です。知らぬ間に麦畑に紛れ込み、はびこっていく毒麦のように、容赦なく人の心をむしばんでいく悪意の種。両親の不和から家庭が破綻し、追い詰められた少年が起こす悲惨な事件を描くこの作品は、今日の聖書箇所から着想を受けた作品とされています。
畑の毒麦のたとえは、マタイの福音書だけに記されている、マタイ独自のメッセージで、彼が伝えたかったメッセージとも言えます。
ある人が良い麦の種を畑に蒔きましたが、人々が眠っている間に敵が来て、毒麦を蒔いていきました。麦が実り始めると毒麦が現れます。「毒麦を抜きましょう」という僕たちの提案に対し、主人は良い麦まで抜いてしまうといけないからと、収穫の時までそのままにしておくように命じました。
ここで「毒麦」と訳されている「ジザニア」とは麦によく似たイネ科の雑草のことで、ジザニア自体には毒はないのですが、ジザニアと一緒に臼で挽いた麦粉のパンを食べると頭痛やめまいなどを引き起こすことから毒麦と呼ばれました。
弟子たちにもたとえの意味がわからなかったのか、群衆を解散させた後、イエスにその意味を尋ねます。36節以下が、イエスによるたとえの解説です。
良い種を蒔くのは人の子(イエス・キリスト)です。畑は世界、良い麦は御国の子ら、毒麦は悪い者の子ら、毒麦を蒔いた敵は悪魔で、収穫は世の終わり、刈る者は御使いたちです。収穫の時が来ると、毒麦が火で焼かれるように、悪い者の子らは火の燃える炉に投げ込まれます。しかし、正しい人(御国の子ら)は天の御国で太陽のように輝くというのです。
前の種を蒔く人(4つの畑)のたとえのように、イエスの解説だけですっきりしない感じがするのは私だけでしょうか。前のたとえように単純ではなく、やや込み入った内容になっている気がします。マタイしか書かなかった、マタイが伝えたかったメッセージとは何だったのでしょうか。

種を蒔く人の眼差し

種を蒔く人はどうして道端や岩地、茨の中に種を蒔いたのかということを考えてみました。それは現代の合理的で生産性を上げるという考えで言えば、非効率と言わざるを得ません。なぜ、そんな無駄なことをしたのかと思ったのです。
イエス時代のパレスチナでの、一般的な農法では、まず地面に種を撒き散らし、その後にロバや牛に木製の鍬を引かせて地面を浅く耕し、土をかぶせていたようです。つまり、種を蒔く時点では、どこが良い土で、どこに岩や茨の根が隠れているかわからなかったのです。また畑の境界線も曖昧でした。つまり、畑全体を豊かなに実らせるために、種を蒔く人は惜しみなく、畑いっぱいに広く漏れなく種を蒔いたのです。
そう考えると、イエスがこのたとえで伝えたかったことは何か、見えるものが変わってきます。私はこのたとえ話を読む度に、またこのテキストからメッセージで語る度に、私はどの土地なのだろうかと考え、またあなたはどの土地ですかと問いかけてきました。それは自己吟味を促す意味ではまちがいではありませんし、イエスの解説されたたとえの意味からも正しいことです。しかし、種を蒔く人の眼差しや期待ではありませんでした。きっと皆さんも、このたとえ話を前にして、自分はどの土地なのだろうかと、自分を分類し、自己診断してきたのではないでしょうか。頑なな私の心は道端のようで、御言葉を聞いても、気がつけばもう忘れていた。信仰の薄い私の心は岩地のようで、御言葉を聞いて喜んで受け入れたかと思えば、根がないのですぐに枯れてしまい投げ出してしまう。神様以外のもので満ちている私の心は、茨にふさがれ窒息しているようで、全然実を結ばない。そんな自分の姿に失望し落胆してしまいます。しかし、種を蒔く人はそれで終わりにはしないのです。農夫は固く踏み固められた道端を耕し、畑に埋まっていた岩を取り除き、茨も根こそぎ掘り起こして、良い土地に変えて、百倍、六十倍、三十倍という実を結ばせたいのです。こうして、私たちが無駄だ、失敗だと見ていたことが、圧倒的な実りへと変えられていくのです。
そんな種を蒔く人の視点から、このたとえ話を学ぶ時、「主よ、あなたがいのちの種を蒔いてくださった私の心を、豊かな実を結ぶ良い畑にしてください」との祈りが生まれてきます。道端、岩地、茨の中、いろんな時があると思いますが、私たちはいつも「良い畑になりたい」と祈り続ける者でありたいのです。良い畑になりたいと願うその心のうめきこそが、聖霊によって私の心が新しく耕され始めている証しなのですから。蒔かれた種は無駄にはならないと信じましょう。

 

さわった人はみな癒やされた

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
マルコの福音書5章28節

今週もCS部から紹介されている夏のリバイバル・メッセージに取り組み恵まれました。
全国中高生大会も最終日、神の火を受け取った中高生たちが用いられますように。続いてもたれるネツェル合唱団の合宿、月末にもたれる豊中での宣教ボランティア、9月の秋期聖会に至るまで、創立80周年の夏の祝福を求めましょう。

 

百倍の実を結びます

礼拝メッセージ「百倍の実を結びます」
聖書 マタイの福音書13章18−23節
マタイの福音書シリーズ(77)

英語のヒアリングもリスニングも、耳を使って聞くことを意味します。ヒアリングは自然に聞こえてくる受動的な聞き方で、リスニングは自分の意志で積極的に聞こうとする能動的な聞き方で、語られている意味を知ることが大切になります。漢字で書くと「聞く」と「聴く」の違いになりますが、「聴」という漢字は、十四の心に耳と書くことから、十四の心で話に耳を傾けるとか言われます。ただ字源的には、四と言っている部分は目を表すそうなので、心と目で言葉の意味を知ろうとすることを表すようです。
聖書の神は、語りかける存在です。聖書を神の言葉と言いますが、実際に「神は言われた」とか「イエスは言われた」とか前置きされ、語られた言葉で満ちていて、その数は3000回以上、関連する箇所を加えると4000回とも言われています。ですから、聖書は「耳のある者は聞きなさい」とくり返し教えるのです。
マタイの福音書から学んでいますが、13章に入りました。マタイはこの頃から、イエスがたとえ話という手法で、人々に話し始められたと伝えています。その経緯について、12章からの流れを先週お話しました。このたとえ話のユニークなところは、弟子たちがイエスにたとえで話される理由を尋ね、イエスがそれに答え、さらにたとえ話の解説までされているところです。
今週も礼拝の恵みに感謝。

 

種を蒔く人が種蒔きに出かけた

たとえ話の「種を蒔く人」とは、イエス・キリストであることはまちがいありません。しかし、聖書をよく見ると「種を蒔く人が種蒔きに出かけた」としか書かれていないので、種を蒔く人が誰かはよくわかりません。種は御言葉です。その種を蒔く人ということであれば、私もあなたも種まく人です。
今年も8月になりました。「八月や六日九日十五日」。この季節になると思い出されるこの俳句は、8月6日の広島原爆の日、9日の長崎原爆の日、そして15日の終戦の日という、日付を並べただけの意味のない句のように思えますが、不戦を誓い、戦争の記憶を風化させないようにという強い思いが込められています。
戦禍の記憶が薄れる中、世界では出口の見つからない戦争や紛争が続き、泥沼化しています。世界が悲しみに満ちています。日本を取り巻く安全保障の環境も厳しさを増し、防衛力強化が進められる現実を、「新しい戦前」と呼び、危惧する声も聞こえてきます。どうすれば憎しみと争いの連鎖を断ち切り、平和を実現することができるのでしょうか。平和の種を蒔く人が必要なのです。
「平和の祈り」はアシジの聖フランシスコの祈りとして知られていますが、実は彼が書いた物ではありません。彼の生き方と信仰を受け継ぐ人たちによって文章化され、世界中に広まった祈りです。調べてみると、日本語でも、英文でもいろいろな訳があることがわかります。種という言葉にこだわった訳文もありました。種まきの話をしたので、その祈りをいっしょにささげながら、私たちの手の中にある御言葉という平和の種を、まず私たちの心に、そして私たちが出会うすべての人の心に蒔いていけたら幸いです。声に出してお祈りを読んでみましょう。

「主よ、私を あなたの平和の道具にしてください。
憎しみのあるところに、愛の種を蒔かせください。
疑いのあるところに、信仰の種を蒔かせてください。
絶望のあるところに、希望の種を蒔かせてください。
悲しみのあるところに、喜びの種を蒔かせてください。
闇のあるところに、光の種を蒔かせてください。」
「神は愛なり!」