土の器

宮本牧師のブログ

御言葉を蓄えた心の倉

マタイは、福音書の13章で天の御国のたとえ話を7つ並べましたが、今回の箇所はそのまとめになります。これを8つ目のたとえ話と数える人もいます。
イエスは弟子たちに言われました。詳訳聖書で紹介します。「それだから、天の国のために教育〈訓練〉された〈弟子とされた〉教師〈聖書の解釈者〉はだれでも、自分の倉から新しい宝と古い〔宝〕〈よく知られたもの〔はもちろん〕目新しいもの〉を引っぱり出す家の主人と同じである。」
ここで言う「新しい宝」とはイエスの教え、そして十字架と復活、つまり福音のことであり、「古い宝」とは旧約聖書の教え、律法と預言のことです。「倉」とは、神の言葉である聖書のことであり、御言葉が蓄えられている私たちの心のことです。イエスの弟子たちは、自分の倉から新しい宝と古い宝とを取り出す一家の主人のように、御言葉を蓄えた心という倉から、イエスの教えやなさったことを、旧約聖書の教えや出来事と結びつけて味わい、その恵みを引き出すことができる、「天の御国の弟子となった学者」とされたのです。
地上的な話をすれば、イエスの弟子たちは「無学な普通の人」と呼ばれていましたが、実は彼らこそイエスから天の御国のことを教わり、それを味わい体験している学者だったのです。
学者と言われると、勉強の嫌いな方は抵抗を感じるかも知れません。もちろん、聖書を学び、神学を学ぶことは大切なことですが、福音はとてもシンプルです。何がわからなくても、「主われを愛す」、この一つのことがわかっていれば、あなたも天の御国の弟子となった学者です。
20世紀を代表する偉大な神学者カール・バルトが、晩年ハーバード大学で講演をしました。聴衆の一人がバルトに聞きました。「先生がお書きになった本はどれも難しいので、私にもわかるように、それをひと言で話してください。」するとバルトはニッコリほほえみ、「主われを愛す(Jesus loves me)」を鼻歌まじりに歌ったと言います。

ためらうことなく

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
イザヤ書58章9節、使徒の働き22章16節、ローマ人への手紙10章13-15節

今週は、秋期聖会の第2聖会を映像でご覧いただきました。聖会のテーマとなった「燃えるたいまつ」のメッセージから、炎の使徒パウロを取り上げた宣教のメッセージに心を熱くしました。

天の御国の弟子となった学者

礼拝メッセージ「天の御国の弟子となった学者」
聖書 マタイの福音書13章51−58節
マタイの福音書シリーズ(82)

京都でもたれた秋期聖会をふり返り、恵みを分かち合った後、後半はマタイの福音書シリーズに戻って行きました。
今日の中心は52節ですが、その前に53節以下の、イエスが郷里であるナザレで受け入れられなかったという部分について、ウイリアム・バークレーの解説を少し紹介しておきたいと思います。
「ここに大きな教訓がある。礼拝の説教の半分以上は会衆がする、という表現がある。それは、会衆が説教のために雰囲気をつくり出す、という意味である。ある雰囲気は、説教者の言葉が通らない壁となり、また、ある雰囲気は期待にあふれていて、どんな下手な説教でも、人の心を燃えたたせるような力を発揮させる。……神を礼拝し、みことばを聞くために集まる者は、真剣な期待を持たなければならない。また、説教する人を見るのではなく、その人を通して語られる主の声に耳を傾けなければならない。」
大切なことを教えていると思います。もちろん、礼拝の善し悪しを聴衆の責任にしようとしているわけではありません。説教者の責任は更に重大です。しかし、聴衆が礼拝の空気をつくると言うことも大切なことです。私も聴衆の側に座ることがありますが、もっと顔を上げて、うなずきながら、「アーメン」と応答し、主が語られる言葉を待ち望みたいと思います。

明日は敬老の日。教会でも敬老祝福の祈りをささげ、プレゼントをお渡ししました。
今週も礼拝の恵みに感謝。

王の印によって

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
イザヤ書59章1−2、16、19節、エステル記8章8節

9月12−13日と京都でもたれた秋期聖会から。第1聖会のメッセージを受け取りました。今回の聖会では「燃える松火のように」のメッセージに登場する聖書の登場人物が各集会で取り上げられましたが、最初の集会ではエステルが取り上げられました。王の名の入った指輪を与えられたエステルが、それを用いてイスラエルを絶滅から救い出したように、私たちもエステルの燃える心と与えられた王の印によって、立ち上がることができますように。聖会の恵みを噛みしめました。

キリストの側から

東京聖書学院の初代院長である笹尾鉄三郎先生がこう言っています。「このたとえを信者の側から見ないで、キリストの側から見なさい。」その視点で、「高価な真珠」のたとえを読むと、高価な真珠を探し、それを買い取るためにすべてを犠牲にした商人こそキリストです。実際、畑に隠された宝のたとえでは、「天の御国は……宝のようなもの」と、物が主語になっていますが、真珠のたとえでは、「天の御国は、良い真珠を探している商人のようなもの」と、人が主語になっています。
イエスが弟子たちに語られた天の御国のたとえは、私たちが神を見つける話で終わりません。その本質は、神がご自分のかけがえのないひとり子を賜ったほどに、この世を愛されたこと、私たち一人ひとりを、高価な真珠として、買い取ってくださったということなのです。イザヤ書43章4節に「わたしの目に、あなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している」とある通り、私たちこそ、神の目に高価で尊い真珠なのです。ダイヤモンドがなかった当時、天然の真珠は宝石の中で最も高価なものと考えられていましたが、神は、地上で最も高価な真珠を選び、あなたがどれほど価値ある存在であるかと言うことを伝えようとされたのです。
カトリックのシスター、渡辺和子先生の『現代の忘れもの』という書物にこんな文章があります。「真珠貝というものは、自分にとってあまり望ましくない異物が入ってきたときに、それをいやがって吐き出してしまわないで、その異物の刺激により分泌される液で、異物そのものを軟らかく、そして固く包んでいきます。それをくり返し大きくなったものが、真珠になるのです。同じように、私も自分の生活の中に入り込んでくる異物、不幸を受けとめて、私にしかつくれない真珠を自分の一生涯をかけてつくっていきたいと思っています。」
確かに、神は私たちの人生に一粒の砂が入ることをお許しになることがあります。私を痛め、苦しめ悩ませる一粒の砂。こんなものがなければと思えるような経験や出来事、挫折と過ち。しかし、神は長い年月をかけ、十字架の愛をもって、幾重にもそれを包みながら、やがて私たちを高価な真珠のように、美しく輝かせてくださるのです。

 

高価な真珠

礼拝メッセージ「高価な真珠(神様の宝もの)」
聖書 マタイの福音書13章44−46節
マタイの福音書シリーズ(81)

8月の21日から、大阪中之島美術館でフェルメール《真珠の耳飾りの少女》展が開かれています。誰もが、どこかで見たことのあるこの作品は《オランダのモナ・リザ》と称されるフェルメールの代表作です。今ではレンブラントと並び、17世紀のオランダ黄金時代を代表するバロック絵画の巨匠と言われるフェルメールですが、絵を描くことを生業としていなかった彼の作品は少なく、43年の生涯に幕を下ろした後、その名はすぐに忘れられ、19世紀半ばに彼の作品が再評価されるまで、200年もの間、一部の美術収集家の間で知られているだけでした。
彼の作品と認められている作品は30数点しかありませんが、《真珠の耳飾りの少女》は、彼が再評価され始めて間もなく見つけられたもので、それまでは青いターバンも見えないほど汚れ、誰が描いたのかもわからない状態でした。1881年、ある骨董屋のオークションに出品されたこの作品を、目利きの美術愛好家が見つけ、知り合いの収集家に買わせます。落札価格はわずか2ギルダーと手数料の30セントでした。今の日本円にして1万円くらいと言われています。やがてフェルメールの作品であることがわかると、収集家はこの絵をマウリッツハイス美術館に寄贈しました。現在、この絵には数百億の値がつくそうですが、実際は値段のつけようもない、その価格はプライスレスです。
少女の耳元に輝く大きな真珠の耳飾りを見ていると、イエス・キリストが語られたとたえ話を思い出します。今年の夏は、マタイの福音書13章から天の御国のたとえ話を学んできましたが、今日の箇所は場面が変わっています。イエスは群衆を解散させて家に入り、弟子たちだけにこのたとえを話されました。

今週も礼拝の恵みに感謝。