今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
イザヤ書59章1−2、16、19節、エステル記8章8節
9月12−13日と京都でもたれた秋期聖会から。第1聖会のメッセージを受け取りました。今回の聖会では「燃える松火のように」のメッセージに登場する聖書の登場人物が各集会で取り上げられましたが、最初の集会ではエステルが取り上げられました。王の名の入った指輪を与えられたエステルが、それを用いてイスラエルを絶滅から救い出したように、私たちもエステルの燃える心と与えられた王の印によって、立ち上がることができますように。聖会の恵みを噛みしめました。
キリストの側から
東京聖書学院の初代院長である笹尾鉄三郎先生がこう言っています。「このたとえを信者の側から見ないで、キリストの側から見なさい。」その視点で、「高価な真珠」のたとえを読むと、高価な真珠を探し、それを買い取るためにすべてを犠牲にした商人こそキリストです。実際、畑に隠された宝のたとえでは、「天の御国は……宝のようなもの」と、物が主語になっていますが、真珠のたとえでは、「天の御国は、良い真珠を探している商人のようなもの」と、人が主語になっています。
イエスが弟子たちに語られた天の御国のたとえは、私たちが神を見つける話で終わりません。その本質は、神がご自分のかけがえのないひとり子を賜ったほどに、この世を愛されたこと、私たち一人ひとりを、高価な真珠として、買い取ってくださったということなのです。イザヤ書43章4節に「わたしの目に、あなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している」とある通り、私たちこそ、神の目に高価で尊い真珠なのです。ダイヤモンドがなかった当時、天然の真珠は宝石の中で最も高価なものと考えられていましたが、神は、地上で最も高価な真珠を選び、あなたがどれほど価値ある存在であるかと言うことを伝えようとされたのです。
カトリックのシスター、渡辺和子先生の『現代の忘れもの』という書物にこんな文章があります。「真珠貝というものは、自分にとってあまり望ましくない異物が入ってきたときに、それをいやがって吐き出してしまわないで、その異物の刺激により分泌される液で、異物そのものを軟らかく、そして固く包んでいきます。それをくり返し大きくなったものが、真珠になるのです。同じように、私も自分の生活の中に入り込んでくる異物、不幸を受けとめて、私にしかつくれない真珠を自分の一生涯をかけてつくっていきたいと思っています。」
確かに、神は私たちの人生に一粒の砂が入ることをお許しになることがあります。私を痛め、苦しめ悩ませる一粒の砂。こんなものがなければと思えるような経験や出来事、挫折と過ち。しかし、神は長い年月をかけ、十字架の愛をもって、幾重にもそれを包みながら、やがて私たちを高価な真珠のように、美しく輝かせてくださるのです。
高価な真珠
礼拝メッセージ「高価な真珠(神様の宝もの)」
聖書 マタイの福音書13章44−46節
マタイの福音書シリーズ(81)
8月の21日から、大阪中之島美術館でフェルメール《真珠の耳飾りの少女》展が開かれています。誰もが、どこかで見たことのあるこの作品は《オランダのモナ・リザ》と称されるフェルメールの代表作です。今ではレンブラントと並び、17世紀のオランダ黄金時代を代表するバロック絵画の巨匠と言われるフェルメールですが、絵を描くことを生業としていなかった彼の作品は少なく、43年の生涯に幕を下ろした後、その名はすぐに忘れられ、19世紀半ばに彼の作品が再評価されるまで、200年もの間、一部の美術収集家の間で知られているだけでした。
彼の作品と認められている作品は30数点しかありませんが、《真珠の耳飾りの少女》は、彼が再評価され始めて間もなく見つけられたもので、それまでは青いターバンも見えないほど汚れ、誰が描いたのかもわからない状態でした。1881年、ある骨董屋のオークションに出品されたこの作品を、目利きの美術愛好家が見つけ、知り合いの収集家に買わせます。落札価格はわずか2ギルダーと手数料の30セントでした。今の日本円にして1万円くらいと言われています。やがてフェルメールの作品であることがわかると、収集家はこの絵をマウリッツハイス美術館に寄贈しました。現在、この絵には数百億の値がつくそうですが、実際は値段のつけようもない、その価格はプライスレスです。
少女の耳元に輝く大きな真珠の耳飾りを見ていると、イエス・キリストが語られたとたえ話を思い出します。今年の夏は、マタイの福音書13章から天の御国のたとえ話を学んできましたが、今日の箇所は場面が変わっています。イエスは群衆を解散させて家に入り、弟子たちだけにこのたとえを話されました。
今週も礼拝の恵みに感謝。
Kitchen Prayer
パン種のたとえは、他のたとえ以上に、それを聞いた人には身近な話題であったにちがいありません。それは人々の日常であり、毎日台所で見ていた光景であったからです。
19世紀半ばに酵母だけを分離・培養する技術が開発され、ドライイーストなどの精製酵母が普及しましたが、それまでは古い生地、詳訳聖書にあった〈酸っぱい練り粉〉であるサワードウを継ぎ足すのがパン作りの製法でした。各家庭で前回こねたパン生地の一部を残しておいて、それを新しい生地に混ぜ込んで発酵を促したのです。最初は、ただの粉の塊に過ぎず、何の変化も起きていないように見えますが、実は古い生地の中に潜んでいた酵母が、ゆっくりじわじわと生地全体に浸透し、パンをふくらませていくのです。これがパン種のもつ力です。イエスは、人の目に見えなくても、確実に内側から全体を変えていくパン種の力を通して、神の国がもつ影響力、浸透力、膨張力、変革力を教えてくださったのです。
ところで聖書全体では、パン種と言えば、悪いもののたとえでした。過越の祭では、罪を象徴するパン種を家から取り除き、マッツァと呼ばれる種入れぬパンを食べることになっていました。イエスは「パリサイ人たちのパン種(偽善や誤った教え)に、くれぐれも用心しなさい」と教え、パウロも「わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか」と、悪意と邪悪のパン種に警戒するように教えています。確かに、小さな悪、小さな罪に注意しなければならないのも事実です。しかし、イエスは人々が悪いものと思い込んでいた「パン種」という題材を利用して、神の国の福音がもつダイナミックな力を、逆転の発想で、強いインパクをもって伝えたのです。「わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませるのです。」福音も然りです。
「台所の祈り(Kitchen Prayer)」と呼ばれる詩のような祈りがあります。
主よ、私の小さな台所を祝福してください。お料理をするときも、お皿を洗っているときも、私の心をいつも喜びで満たし続けてください。あなたの祝福を私の家族みなでいただくことができますように。そして、あなたが再びおいでになるときの心備えができますように。アーメン
この祈りを唱えていると、女性が、もちろん男性でもいいのですが、台所に立ち、家族のために(あるいは自分のために)食事を用意している。包丁がまな板を叩く音が心地よく響き、鍋からは湯気が立ち上り、窓から差し込む光が台所を満たしている……。そんな情景が浮かんできます。この祈りには暮らしを愛おしむ思い、今日を善く生きていきたいという願いが満ちています。台所での営みは、特別なものではなく、ありふれた日常、まさに茶飯事です。私たちのそんな日常茶飯事、私の小さな台所から世界を変えていこうではありませんか。
次の日曜日は、9月のオープン礼拝です。ぜひお出かけください。
その日には、エルサレムから
今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
ゼカリヤ書14章4-5,8-9節
今週はゼカリヤ書の預言から、今あるエルサレムの向こうにある、神が見ておられる、エルサレムのあるべき姿、その輝かしいゴールを確認しました。
秋期聖会が近づきました。内外の備えが整えられますように。
台所の祈り
メッセージ「台所の祈り」(三斗の粉をふくらすまで)
聖書 マタイの福音書13章33−35節
マタイの福音書シリーズ(80)
イエスの天の御国のたとえ話シリーズ。今日はたった1節しかないパン種のたとえ話です。詳訳聖書では次のように訳されています。
「天の国はパン種〈すっぱい練り粉〉のようなものである。女がそれを取って三サトン〈三十六リットル〉の食べ物〈麦粉〉の中に潜ませておくと、全部が発酵する。」
このたとえ話を何度も読みながら、創世記18章の物語を思い出しました。アブラハムは3人の旅人をもてなすのに、サラに3セアの小麦をこねてパンを作るように頼みました。それは半端ない量で、100人分のパンで祝宴でも開くことのできる量でした。
創世記は3セア、マタイの福音書では3サトンという単位でその容量が示されています。
聖書の巻末にある、度量衡の一覧を見ると、1セアは7.6Lなので3セアで約23L、1サトンは13Lなので3サトンで39Lになり、厳密なことを言えば、実際の量にはちがいがありますが、いずれにしても一家族で食べられる量ではなく、有り余るほどの豊かさを表す量です。口語訳聖書では、この「三サトンの小麦粉」を「三斗の粉」と訳していました。
イエスが「三サトンの小麦粉(三斗の粉)」と語られた時、そこに集まっていた人々は、すぐにアブラハムの物語を思い出したことでしょう。あの日、アブラハムが主の使いをもてなすためにサラに用意してもらった3セアのパンは、やがて来る神の国の祝福を先取りするものだったからです。イエスはアブラハムの物語をオマージュするように、たとえ話に取り込むように三斗の粉がふくらむ様子を示しながら、「天の御国はパン種に似ています」と語られたのです。
福音というパン種が、私たち一人ひとりの存在を通して、この世界に、この時代に練り込まれ、浸透し、やがて内側から変化させ、神の国が大きくふくらみますように。
「満たせ永遠のいのちを、聖徒の数をば、三斗の粉をふくらすまでは、ふくらすまでは。祈れ進めて満たせ、限りなき命の、三斗の粉生かす時こそ近し。」(霊歌77番)
8月も最後の礼拝です。各地で災害が続いていますが、被災地のためにも祈りをささげました。今週も礼拝の恵みに感謝。