土の器

宮本牧師のブログ

種を蒔く人が種蒔きに出かけた

たとえ話の「種を蒔く人」とは、イエス・キリストであることはまちがいありません。しかし、聖書をよく見ると「種を蒔く人が種蒔きに出かけた」としか書かれていないので、種を蒔く人が誰かはよくわかりません。種は御言葉です。その種を蒔く人ということであれば、私もあなたも種まく人です。
今年も8月になりました。「八月や六日九日十五日」。この季節になると思い出されるこの俳句は、8月6日の広島原爆の日、9日の長崎原爆の日、そして15日の終戦の日という、日付を並べただけの意味のない句のように思えますが、不戦を誓い、戦争の記憶を風化させないようにという強い思いが込められています。
戦禍の記憶が薄れる中、世界では出口の見つからない戦争や紛争が続き、泥沼化しています。世界が悲しみに満ちています。日本を取り巻く安全保障の環境も厳しさを増し、防衛力強化が進められる現実を、「新しい戦前」と呼び、危惧する声も聞こえてきます。どうすれば憎しみと争いの連鎖を断ち切り、平和を実現することができるのでしょうか。平和の種を蒔く人が必要なのです。
「平和の祈り」はアシジの聖フランシスコの祈りとして知られていますが、実は彼が書いた物ではありません。彼の生き方と信仰を受け継ぐ人たちによって文章化され、世界中に広まった祈りです。調べてみると、日本語でも、英文でもいろいろな訳があることがわかります。種という言葉にこだわった訳文もありました。種まきの話をしたので、その祈りをいっしょにささげながら、私たちの手の中にある御言葉という平和の種を、まず私たちの心に、そして私たちが出会うすべての人の心に蒔いていけたら幸いです。声に出してお祈りを読んでみましょう。

「主よ、私を あなたの平和の道具にしてください。
憎しみのあるところに、愛の種を蒔かせください。
疑いのあるところに、信仰の種を蒔かせてください。
絶望のあるところに、希望の種を蒔かせてください。
悲しみのあるところに、喜びの種を蒔かせてください。
闇のあるところに、光の種を蒔かせてください。」
「神は愛なり!」

私の心の願い、神にささげる祈り

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
ローマ人への手紙10章1-4節

暑い中、今週も教会に集まってくださる皆さんとともに、この夏の各地の行事のために祈りを積みました。
イスラエルのA合唱団の指揮者からのお手紙を紹介した後、お勧めは、『言泉集』15巻のローマ人への手紙から。

 

愛の種をまこう

8月のオープン礼拝
メッセージ「愛の種をまこう」
聖書 マタイの福音書13章1-9節
マタイの福音書シリーズ(76)

礼拝では、マタイの福音書を順番に学んでいます。今日から13章に入ります。聖書を読まれたことがある方なら、きっと「ああ、たとえ話の章ね」と思われるところですが、シリーズで学んでいるのでわかることもあります。
その日、イエスがガリラヤ湖のほとりに腰を下ろしていると大勢の群衆が集まって来ました。人々の期待、緊張、疑念、羨望など、さまざまな感情が渦巻き、岸辺は足の踏み場もないほどでした。イエスは舟に乗り、湖上から岸に向かって語り始めました。波が運ぶイエスの声を、群衆は静まり返って聞き入りました。
12章で時の宗教指導者たちがイエスに対立していく様子を見てきましたが、明らかに風向きが変わりました。イエスのなさる奇跡を見て、「悪霊のかしらベルゼブルによることだ」と断じたことによって、彼らはもう後戻りできない一線を越え、その世代に対するさばきは避けられないものとなったのです。そして13章を境に、イエスの説教のスタイルが劇的に変化します。神の国が拒否されたことを受けて、その真理は、公然とは語られなくなり、選ばれた者たちだけに、隠された形で語られるようになりました。そのためにイエスが採用したのが「たとえ」という形式です。
たとえ話とは、日常生活で経験する出来事を取り上げ、そこから霊的な真理を導き出さす文学形式です。聞く者が心を開くなら、たとえは単なる話を超えて、神の国の奥義を示す光となります。しかし、心を閉ざし、理屈だけで受け止めようとする者には、謎めいた物語でしかありません。その日、舟に乗って腰を下ろされたイエスは、群衆に向かってたとえで話されました。これは聴衆を拒んだということではなく、むしろ、真剣に神の国を求める者を探し出すための、愛と知恵に満ちた説教スタイルであったのです。

今週も礼拝の恵みに感謝。
熊本地震で被災された地域の皆さまに、心よりお見舞い申し上げます。

 

詩の奥に秘められた願い

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」(詩編133:1、新共同訳)
これは「都に上る歌」ですから、久々に再会した兄弟たちと神殿を詣でる喜びが歌われていると思っていましたが、こんな文章を読んで印象が変わりました。
このダビデの詩は私の好きな詩のひとつで、読むたびごとに必ず心の中に、ある情景が浮かんでくるのです。それはこんな情景です。
一日の仕事を終え、夕食時を迎えた家族が食卓を囲んで共に座り、父親が食前の感謝の祈りと家族が一日を無事に送れたことのお礼を神さまに申し上げている。……そこには主にある深い平安と静かな喜びがあふれているのです。 また、こんな情景も浮かんできます。教会の兄弟姉妹が礼拝堂に集い、共に座って心からの礼拝をささげている。皆が唯一の神さまを仰ぎ、一つの心で賛美し、感謝の祈り、あるいは赦しを求める悔い改めの祈りをささげている。そこには「御国を来たらせたまえ」と祈りながら地上を旅する神の民に与えられる深い神の恵みと、心の底から湧き出るような清らかな喜びが満ちている……。 わたしたちは聖日ごとに主にある兄弟姉妹と共に礼拝を守り続けられることの素晴らしさを素直に感謝したい。共に座って祈りをささげ、礼拝をささげられることを大切にしていきたいと思います。なぜなら、心ならずも共に座れない、座れなくなってしまった人たちが現実に多くいることを知っているからです。…… この詩の作者ダビデは、自分の傲慢の罪のゆえにバテシバ事件を起こし、王位継承をめぐって愛する息子アブサロムを失います。イスラエルの王になったものの、幸せな家庭をつくれなかった人です。ですからこの詩の奥には、共に座れなくなった者たちが赦しあうことによって、再び共に座って祈り、礼拝をささげる者になってほしいとの切なる願いが秘められていることを、私は強く感じるのです。

共に座れなくなった者たちが赦しあうことによって、再び共に座って祈り、礼拝をささげる者になれますように。

 

神の家族

礼拝メッセージ「神の家族」
聖書 マタイの福音書12章46−50節
マタイの福音書シリーズ(75)

12章の終わりの記事にイエスの母と兄弟が登場します。マルコの並行記事を見ると、「イエスの身内の者たちはイエスを連れ戻しに出かけた。人々が『イエスはおかしくなった』と言っていたからである」と記されています。パリサイ人たちがイエスのなさる奇跡を見て「悪霊のかしらベルゼブルによる」と誹謗中傷しているのが、うわさになっていたようです。心配そうな顔をして外に立っている母マリアの様子が思い浮かびます。
ところがイエスは家族の心配をよそに、神の国における真の家族がいかなるものであるかを語られました。イエスは弟子たちの方に手を伸ばして言われました。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たち(神の家族)です。だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母(神の家族)なのです。」
イエスは決して親兄弟をぞんざいに扱っているのではありません。神の愛によって結ばれた新しい関係としての神の家族について語っているのです。イエスが十字架の上で語られた7つの言葉がありますが、第3の言葉は孝愛の道を説くものでした。イエスは母と愛弟子であるヨハネに、それぞれ「ご覧なさい。あなたの子です」「ご覧なさい。あなたの母です」と語りかけています。イエスは十字架の上で「わたしを見なさい」と言われずに、十字架を通してお互いを見つめ合うことを教えてくださったのです。これは単なる親子関係を言っているのではなく、弟子ヨハネからすれば、イエスの兄弟に、家族にしてもらったということです。この神の国の養子縁組が、十字架のもとで結ばれ、神の国の新しい家族が、十字架のもとで生まれたのです。
今週も礼拝の恵みに感謝。

 

質問攻め

ソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たと言われている南の女王については、旧約聖書の列王記第一の10章および歴代誌第二の9章に、ほぼ同じ内容で記されています。そこでは南の女王のことが「シェバの女王」と呼ばれています。
女王が治めていたシェバ王国がどこにあったのかについては諸説がありますが、アラビア半島の南西部にあるイエメンの辺りであると思われます。聖書時代、この地域は豊富な香料を産出し、海上交易の要衝として栄えていました。ソロモンのうわさを耳にしたシェバの女王は、王との謁見を願い、大規模なキャラバン隊を率いてエルサレムにやって来ました。およそ2000キロ、半年ほどかけての旅だったでしょう。
列王記第一10章1節以下、リビングバイブルで。「シェバの女王は、ソロモン王が主にすばらしい知恵を授かった人物との名声を聞き、難問をもって彼を試そうと思いました。 女王は、大ぜいの供を率い、香料や金や宝石を積んだ長いらくだの列を従えてエルサレムにやって来て、王を次々と質問攻めにしました。 王はすべての質問に答え、神が正しい答えを下さっていたので、答えられない問題は一つもありませんでした。 女王は、ソロモン王のすぐれた知恵について聞いていたことすべてが事実であると知るのです。また、王が建てた美しい宮殿、 食卓に並んだ山海の珍味、そろいの服装で仕えている大ぜいの家臣や従者、酌をする者、さらに、主にささげられた多くのいけにえを見て、息も止まるばかりでした。」
南の女王の興奮と感動がわかるでしょうか。しかし、それにもまして本当に幸いなのは、ソロモンにまさるものであるイエス・キリストを知ることです。キリストのうちにすべての答えがあります。人生の悩みも、罪の重荷も、将来の不安も、すべてを超えて、キリストこそが人生の答えです。

生ける水の川の流れ

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
ヨハネの福音書7章37−38節

毎回『あかしびと』が届くと、記事を紹介し、その中からお勧めをしたり、証を紹介したりしますが、今週は「聖イエス会80年の軌跡」から1952年の夏の出来事を、記事にある通り、その前後の流れと今につながる流れを確認しながら学びました。
厳しい暑さが続きますが、お祈りに集まってくださる皆さんに感謝です。