土の器

宮本牧師のブログ

それぞれの名を呼んで

ヨハネの福音書10章の前半は、イエスの一連の譬え話を受けて、群衆が「彼は悪霊につかれておかしくなっている」「いや、見えない人の目を開けることを、悪霊ができるだろうか」と言い合うところで終わります。ということは、9章で学んだシロアムの池の物語は、ここまで続いているということです。
シロアムの池で目を開かれた元盲人を会堂から追放した宗教指導者たちと、まるで失われた一匹の羊の名を呼ぶ良き羊飼いのように彼を捜し出したイエスとの対比が、今日の譬えの中で語られているのです。

1節から5節は、現実の羊飼いの仕事ぶりを比喩として用いて、イエスと対立するユダヤの指導者たちを対比させています。神の民の指導者を羊飼いに譬える語り方は、イスラエル古来の伝統です。また、イエスもこの比喩をよく用いられました。「飼い主のない羊の群れ」という表現や、失われた一匹の羊の喩えは有名です。

真の羊飼いの条件は、まず門を通って囲いに入ることです。更に肝心なことは、「羊たちはその声を聞き分けます」ということです。しかも、「牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します」とありますから、羊飼いは、その一匹一匹に名前を付けて、その名を呼んでいたということですそれは愛の表れでした。自分の羊たちの名を呼んで囲いから連れ出した羊飼いは、先頭に立って群れを導き、命を養う牧草や水のあるところに連れて行きます。羊たちは羊飼いについて行きます。

この光景は、「主は私の羊飼い」と歌われるあの詩篇23編を想い起こさせるものです。