土の器

宮本牧師のブログ

君の名は

ヨハネの福音書は、8章でくり広げられた論争の前半と後半に、二度に渡って「あなたはだれなのですか」(25節)、「あなたは、自分を何者だと言うのか」(53節)というイエスへの究極の問いかけをユダヤ人に語らせ、その間違いのない答えへと私たちを導きます。イエスは言われました。「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」と。

聖書では「わたしはある」という言葉が二重のかぎ括弧に入れられていますが、この「わたしはある」とは、先に「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と言われていたのと同じ「エゴー・エイミ(私は在って在る者である)」との神の御名です。

ところが、ヨハネ福音書の8章は、その言葉を聞いたユダヤ人たちが、石を取り上げ、イエスに投げつけようとする場面で終わります。彼らは「わたしはある」という言葉を正しく理解しました。だからイエスを、神を冒瀆する者として、石で打とうとしたのです。しかし、彼らには、イエスの本当の名が「わたしはある」ということは理解できなかったのです。

新海誠さんの「君の名は。」という映画をご存知でしょうか。信仰とは関係のない作品ですが、タイトルは魅力的です。だれもがそう問いかけなければならない、人間が罪によって忘れてしまった名があるのです。それが神の名です。絶対に忘れてはいけなかった愛しい神の名を人は忘れてしまったのです。誰だ、誰だ、「君の名は」と暗闇の中でもがき続けているのが私たちなのです。だから、神は聖書の中でくり返しくり返し、ご自身の名を私たちに語り続けておられるのです。

「われわれの魂の慕うものは、あなたの名」(イザヤ26:8)です。「命を得させ、御名を呼ばせてください。」