土の器

宮本牧師のブログ

わたし、このわたし

「わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中に死ぬことになるからです。」ここでは「信じなければ」とありますが、当然「信じるならば」、真逆の結果になることは明らかです。罪が赦され、永遠のいのちが与えられるという結果です。

何を信じるのでしょう。イエスが「わたしはある」ということを信じるのです。「わたしはある」とは、ギリシャ語の「エゴ・エイミ」の直訳です。それはあのモーセに、燃える芝の中から語りかけられた神の名「我は主なり」のことです。

新改訳2017では、私たちが読み間違えないように、わざわざ「わたしが」という言葉を付け足して、ていねいに訳しました。「わたしが(イエスが)『わたしはある(我は主なり)』であること」を信じるためです。「イエスの名によっていのちを得るためである」と、最後にこの福音書をまとめるヨハネは、イエスがこの神の名をくり返し語られたことを私たちに伝えているのです。

もしあなたが、「我は主なり」を信じないならば、あなたは罪のうちに死に、滅びることになる。しかし、もしあなたが、「我は主なり」を信じるならば、あなたの罪は赦され、永遠のいのちを得ることができる。ユダヤ人たちは、この言葉を聞き、「あなたはだれなのですか」と尋ねています。

イエスはくり返して言われました。「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であることを知るようになります。」「人の子を上げるとき」とは、イエス・キリストの十字架のことです。イエス・キリストの十字架と復活を通して、私たちの心の目が開かれるとき、イエスこそ「わたしはある」という者であることが、はっきりとわかるようになると言っておられるのです。

御名によって、罪が洗い落とされることについては、預言者イザヤが、はっきりと語っています。イザヤ書43章は、ほんとうに素晴らしい神のメッセージです。「主はこう言われる。・・・見よ、わたしは新しいことを行う。」その新しいこととは一体何だったのでしょうか。神は、イスラエルの荒野のような、砂漠のような、罪の現実を語りながら、25節でこう言われます。「わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」だから、「成し遂げられた」との十字架の言葉がある限り、「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。

 

6月に入りました。第1日曜は新しい人にもわかりやすいオープン礼拝です。ぜひお出かけください。