土の器

宮本牧師のブログ

私に結びつく者は必ず生きる

イエスがベタニアに到着された時には、ラザロは墓に葬られて、すでに4日経っていました。高温多湿の中東では、その日のうちに死者を葬るのが常でした。そして死後一週間は、喪に服し、弔問客が訪れます。「マルタとマリアのところには、兄弟のことで慰めようと、大勢のユダヤ人が来ていた」と書かれている通りです。

イエスが来られたと聞いて、マルタはイエスを迎えに行きました。彼女はイエスに出会うなり、こう言いました。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」イエスの返事はこうです。「あなたの兄弟はよみがえります。」マルタの答えは信仰的です。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」ユダヤ教の中にも、終わりの日の復活を信じる信仰がありました。マルタはそれを承知していますと言っているのです。しかし、いま目の前におられるお方がだれであるかがわかっていませんでした。イエスは言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。」言葉のことを言えば、マルタは、いつか来る終わりの日の復活について未来形で語りましたが、イエスは現在形で語っています。「いつかではなく、わたしは今、あなたのよみがえりであり、今、あなたのいのちとなるのです。」

私たちの信仰は未来形になりがちです。今ではなく、いつかそうなると信じている、という信仰です。あるいは、私たちの信仰は過去形です。以前は信じていた。ですから、もし私たちが「知っています」と言っているのなら、マルタと同じです。

私たちのなすべきこと、今信じることです。ギリシア語本文をていねいに忠実に訳している詳訳聖書では25節の「信じる者」をこう訳します。「私を信ずる<私に結びつく、信頼する、より頼む>者は・・・必ず生きる。」信じるとは、どういうことかと言うこと、神の真実につながることです。私の内に信じる理由がなくても、神は信頼できる方なので、その真実に、神の信仰につながることです。もし信じるなら、罪によって死んでいる私たちの内なる人は、キリストに結びつきよみがえります。

マルタは言った。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」この時点で、マルタの信仰はまだ完全ではなかったかも知れませんが、この信仰です。私たちも今告白しましょう。「あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」