土の器

宮本牧師のブログ

沈黙のキリスト

アンナスによる予備審問が始まります。イエスの時代、最高法院の法規においては、正式に弁論を重ね、尋問と判決との間に一日を置くことになっていましたが、その夜、一切の法規は無視され、一気にイエスの死が決定されていきます。彼らは被告であるイエスのために、正当な証人を立てず、弁護人さえ出廷させずに、一方的に罪を告発し、一刻も早くイエスを処刑しようと計りました。 アンナスは予審において、「弟子たちのことやイエスの教えのこと」について尋問しました。彼はこの二点からイエスを罪人として決定する材料を得ようとしましたが、イエスは第一の問いには何も答えず、自分を売った弟子や、逃げ去った弟子たちを思い、沈黙を守られました。『十字架の黙想』にはこう記されています。 「わたしたちも、人のことについて語るとき、慎重でなければならない。ことに、その人の名誉にならないことについては、沈黙を守るべきことを、主は教えられた。愛は罪を覆うのである。 人は他人の欠点や秘密については、針小棒大に言いふらしやすい。これは、人間の自然性の弱さである。聖書にも、『もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である』と記されている。 霊的生活において、沈黙のしめる位置は高く、完徳を達成するためにきわめて重要である。真に、主との一致を望むなら、沈黙、黙想の人とならねばならない。多弁で、冗談を好む人は、例外なく心が散漫で、非霊的な人である。自分の心の動きに注意せず、沈黙を守らない人は聖寵を失う。霊的生活は、まず沈黙より始まり、黙想うちに完成されねばならない」と。 2月の祈祷会で、家内が自分の原点ということで、この『十字架の黙想』の箇所を引用し、沈黙のキリストとの出会いについて、イザヤ書42章を開きました。イザヤ書42章19節以下、「わたしの僕ほど目の見えない者があろうか。わたしが遣わす者ほど、耳の聞こえない者があろうか。わたしが信任を与えた者ほど、目の見えない者があろうか。多くことが目に映っても何も見えず、耳が開いているのに、何も聞こえない。」 沈黙のキリストは、何も知らないのではなく、何も見えず、何も聞こえなかったのではなく、すべてをご存知でありながら、私たちの無知蒙昧をあがなうために、沈黙を貫かれたのです。「屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった」のです。ペトロも言います。「『その方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。私たちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」と。 あなたは沈黙のキリストにもう出会いましたか? 次の日曜日は3月最後の礼拝。来週には新元号も発表されます。 新シーズン到来です。