土の器

宮本牧師のブログ

誤解

礼拝メッセージがヨハネ福音書のシリーズに戻りました。パンの奇跡の翌日にカファルナウムの会堂でなされたパンの説教の続き、その結論の部分からになります。説教と言っても、実際は、イエスの後を追いかけてきたユダヤ人の質問から始まり、要所要所で彼らの反応や言葉が挿入されているので、説教と言うよりは対話という形ですが、イエスは命のパンという大切なテーマをここで展開していかれました。イエスが「わたしが天から降って来たパンである」と語られるに及んで、ユダヤ人はつぶやきました。彼らはイエスをヨセフとマリアの子であると考えていたからです。そんな彼の反応は、まるで出エジプトの時、マナを食べてつぶやいた先祖たちに似ています。さらに、「わたしが与えるパンは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と語られるに及んで、つぶやきは反発になります。彼らは「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めました。彼らは、「肉を食べ、血を飲む」というイエスの言葉を誤解してしまったのです。群衆だけではありません。多くの弟子たちも、「実にひどい言葉だ。だれが、こんな話しを聞いていられようか」と言って、つまずいてしまいました。さあ、私たちはどうでしょう。難解な聖書箇所ですが、難しいところをクリアできれば、あとは簡単です。 ここでイエスが語っておられるのは、当然、信仰の世界のことです。肉を食べ、血を飲むとは、ちょっと過激な表現ですが、これは一つの文学的な表現です。それを食べ、それを飲む者が、私の内におり、私もまたいつもその人の内にいると言われていることからも明かなように、これは「キリストは私のうちに、私はキリストのうちに」という、霊的な真理を表す比喩的な表現なのです。肉を食べる、血を飲むという余りにもショッキングな表現のために、それに続く霊的な真理を見落とさないようにしなければなりません。私たちの命、血となり肉となるために、十字架の上で自らを与え尽くしてくださったキリストこそ、私たちの霊的なまことの食物、まことの飲み物なのです。 ちなみに、ヨハネによる福音書には、最後の晩餐の席で、イエスがパンとぶどう酒を弟子たちに配る場面がありません。その代わりに、ヨハネはパンの奇跡とそれに続くパンの説教の締めくくりとして、最後の晩餐でイエスが語られた霊的な真理を解き明かしているのです。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。」「取って食べなさい。これはわたしの体である」と。 昨日は、礼拝後、岐阜教会でもたれたチェンバロ・コンサートに参加させていただきました。 礼拝堂に響くチェンバロの音色は特別です。今週も大切なことを大切に。