土の器

宮本牧師のブログ

ここにてみことばは

聖地はナザレにある受胎告知教会の地下に、天使ガブリエルがおとめマリアに現れたと言われる場所があります。そこにある記念の祭壇には、ラテン語で「ここにてみことば(ロゴス)は肉体となりたまえり」と刻まれています。ベツレヘムの聖誕教会ではなく、受胎告知のあったここが神の言であるキリストが受肉された場所と言うことです。ロゴスの受肉(incarnation)の神秘は、毎週、使徒信条で「主は聖霊によって、おとめマリアより生まれ」と告白している大切な教理です。カトリックでは「託身」と言い、最近では「人間化」という訳語も使われるようになっています。 礼拝で「ヨハネによる福音書」をシリーズで学びはじめて4年、ようやく17章の終わりまでたどり着きました。来年いっぱいで終わると思いますが、聖イエス会で一番大切な書をていねいに学んでいます。今年も待降節は、ヨハネによる福音書の1章に戻って、ロゴスの受肉の神秘について改めて学び、待降節の味わいを深めたいと思います。 ヨハネによる福音書には、いわゆるクリスマスの物語はどこにも見当たりません。聖書の預言の言葉も、ベツレヘムも出てきませんし、マリアもヨセフも、羊飼いも博士も天使も登場しません。しかし、イエスの誕生の意味を考える時、ヨハネが伝えるメッセージはクリスマスの真実を私たちに教えます。ヨハネはクリスマスの出来事ではなく、霊的な意味を伝えるのです。 今週も大切なことを大切に。
17章のあの祈りから、1章に戻って、ヨハネが伝えたかったメッセージを確認しましょう。
「17:24 父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。17:25 正しい父よ、世はあなたを知りませんが、私はあなたを知っており、この人々はあなたが私を遣わされたことを知っています。17:26 私は御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。私に対するあなたの愛が彼らの内にあり、私も彼らの内にいるようになるためです。」
戻って、1章の9節から。「1:9 その光(キリスト)は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。1:10 言(キリスト)は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。1:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」
ここには光と世、言と民との関係が簡潔に描かれています。すべての人を照らすまことの光があって世に来ました。世とはこの世界のこと、また私たちのことですが、世は言(キリスト)によって、彼のために造られたのに、彼に気が付きませんでした。言は自分のところに来たのに、自分の民は彼を受け入れることが出来なかったのです。この行は、ルカが伝えるクリスマスの出来事を思い起こさせます。「マリアは月が満ち、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」驚きと興奮にあふれるファンタジーのようなクリスマス物語の中に影を落とす切ない現実がこの言葉です。「客間には彼らのいる余地がなかった。」「言は、自分の民のところに来たが、民は受け入れなかった。」歓迎しなかったのです。
しかし、イエスは17章に至ってこう言われます。「正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしは知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。」これは、イエスと弟子たちの宣教によって、未来信じる者たちのために祈られた祈りでした。「この人々」とは、私たちのことではありませんか。私たちは父なる神が独り子なる神を遣わされたことを知っています。ロゴスの受肉の神秘を知っています。何と幸いなことでしょう。
1章の続き、「1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。1:13 この人々は、血筋・家柄によってではなく、肉の欲・人間の願望によってではなく、人の欲・人間の意思によってでもなく、神によって生まれたのである。」そうです。「わたしは御名を彼らに知らせました。またこれからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」
このように17章の祈りと1章の言葉はまさに表裏一体です。ヨハネは一貫して、ロゴスの受肉の真実を受け入れ、御名を信じる者が神によって新たに生まれるというメッセージを語り続けているのです。