土の器

宮本牧師のブログ

エッセイ

天の都を目ざして

8月最後の礼拝で、青年たちが制作した『天路歴程』をご覧いただきました。ジョン・バンヤンの名著『天路歴程』は、17世紀に書かれた古典的キリスト教文学です。イギリスでは、聖書の次に大切な本だと言われていますが、世界中のクリスチャンに愛読され、部分…

天路歴程 天の都を目ざして

礼拝メッセージ「天路歴程 天の都を目ざして」古谷有美牧師聖書 ヨハネの福音書14章6節、マタイの福音書16章24節8月最後の礼拝は青年たちが担当してくれました。賛美、司会進行、聖書朗読、自分たちで制作した『天路歴程』の動画。メッセージも牧師と青年と…

わたしの枝で

ヨハネ福音書の15章に入ります。14章の最後の所で、食事をした大広間のある家を出てゲッセマネの園に向かって歩み始めた一行でしたが、イエスは何度も立ち止まって弟子たちに話を続けられました。月夜に、ぶどう園が目に入ったのかも知れません。譬え話の名…

知るべきである

イエスは弟子たちとの最後の晩餐を終え、ゲッセマネに向かおうとされています。イエスは訴えるように言われました。「この世は、わたしが父を愛し、その御旨のままに行うことを知るべきである。さあ、立ちなさい、出かけよう。」ここでイエスが「知るべきで…

Peace Of Mind

随分前のことですが、来日していた歌手のマドンナさんに女性キャスターがインタビューをしました。彼女は流暢な英語でいくつかの質問をした後で、最後にこう尋ねました。「これが最後の質問です。あなたは大成功を収めました。富も美貌も名声も成功もすべて…

深みにおける十分さ

「しかし、慰め主〈助言者、助け主、とりなす者、弁護者、激励者、援助者〉、すなわち、父が私の名によって〈私の代わりに、私を代表して、私に代わって働くために〉つかわされる聖霊は、あなたたちにすべての事を教えてくださる。また彼は私があなたたちに…

三位一体

政治、スポーツ、最近ではアニメなどでも「三位一体」という言葉が使われていますが、もともとはキリスト教の専門用語です。ところが、聖書の中に「三位一体」という言葉を見つけることはできません。これはどこまでも神学的な用語です。しかしその言葉は見…

わたしの名を置く

イエスは言われました。「わたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。」もちろん、「アラジンと魔法のランプ」のように、自分の願いが叶うおまじないという意味ではあり…

神に渇く

十字架の前夜、イエスがいなくなってしまうということが語られると、動揺する弟子たちが次々に発言します。まず「どこへ行かれるのですか」と言うトマスの咄嗟の問いかけが、イエスの口から偉大な啓示を引き出しました。「わたしは道であり、真理であり、命…

3つのP

十字架の前夜、最後の晩餐の席上でのことです。イエスは弟子たちに、最後の教えを語り始められました。それはヨハネだけが記す、14章から17章までのかなり長い説教です。実際には、食事の後、ゲッセマネの園に移動する時間も含め、ある部分は弟子たちとの問…

ノン・フィクション

ポーランドの作家シェンキェビィッチの歴史小説「クォ・ヴァディス(Quo Vadis)」は、暴君ネロの時代が舞台となっていますが、初代教会の様子が随所に散りばめられた興味深い作品です。物語の最後に、迫害が激化する中、ローマの信徒たちがペトロにローマを…

かかとを上げます

イエスは、ご自分が裏切られることについて詩篇の言葉を引用して語られていました。「聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます』とかいてあることは成就する。」これは詩篇41編9節の引用ですが、サムエル記下15章に記され…

新しい戒め

イエス・キリストが十字架にかけられる前夜、最後の晩餐の席でのことです。イエスは自分に残されている時間が少ないことを強く意識しながら、その時間を大切に使われました。まず弟子たちの足を洗い、身をもって愛と謙遜の模範をお示しになりました。そして…

聖霊のバプテスマ

アナニアはサウロに言いました。「兄弟サウロ。あなたが来る途中であなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが……聖霊に満たされるためです。」聖霊に満たされるとは、どういうことでしょう。土の器である私の上に、生ける水である聖霊が注がれ…

模範

キリストこそ、謙遜と愛の模範です。イエスは言われました。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を残したのである。」ペテロも言いました。「あなたがたが召されたのはこのためです。キリストは……模範を残されたからです。」…

未見の神

未見の我という言葉があります。私たちは、自分自身を全部知っているわけではありません。いろいろな人との出会いやさまざまな経験を通じて「未だ見ざる我」に出会うのです。 洗足の場面で、ペテロの発言や態度は、彼の性格をよく表しています。彼の席が13番…

最後まで

ヨハネ福音書だけではわからない、洗足の真実があります。ルカの福音書によれば、最後の晩餐の席上、弟子たちがあることで議論を始めています。それは「だれが一番偉いのか」という議論です。『日本人に贈る聖書ものがたり』で、この場面が席順を決める話し…

105歳まで生涯現役医師を続けられた日野原重明先生と音楽評論家の湯川れい子さんが音楽療法に関して語り合った内容が『音楽力』という本にまとめられています。最後のページに、「音楽は心にも体にも万病に効く」「音楽は副作用のない生薬である」「音楽は海…

耐えられる苦しみ

あの日から1週間、トマスはどんな気持ちで弟子たちのところにとどまり続けたのでしょうか。 復活されたイエスは、弟子たちに「ガリラヤで会おう」と語っておられましたので、弟子たちはガリラヤに行くべきでしたが、少なくとも1週間は、エルサレムに留まって…

もう怒っていないよ

学生時代、よく友人を教会に誘いました。友人が来ると、牧師や先生が声をかけてくれるのですが、長くなると「あなたは救われていますか」「信じれば救われますよ」という話になり、友人はばつの悪そうな様子でした。クリスチャンの間では、よくある普通の会…

新旧の双璧

イザヤは旧約、最大の預言者であり、旧約の最高峰です。一方、ヨハネは新約の最高峰であり、旧新約聖書の双璧が、イエスの栄光を証言します。イザヤは何を見たのでしょうか。 紀元前742年、神の寵愛を受けながら、最後に傲慢によって失脚したウジヤ王が死に…

ゲッセマネの祈りと主の祈り

「一粒の麦」の譬えを通して、ご自分の死と復活について語られたイエスが、突然、ご自分の心のうちを吐露されました。この場面は、「ヨハネ福音書のゲッセマネ」と呼ばれる箇所です。ヨハネ福音書には、共観福音書に見られるゲッセマネの祈りが記録されてい…

一粒の麦

イエス・キリストが十字架にかかられる時が近づいていました。イエスは有名な「一粒の麦」の譬えを通して、ご自分の死と復活について、またその死がもたらす結果について語られました。共観福音書では、もう少し早い時点で、イエスが受難の予告をされ、その…

隔ての壁を打ち壊し

キリストの死の1週間前、「君よ、われらイエスに謁えんことを願う」と言って、弟子ピリポのところにやって来たギリシア人たちは、どうして直接、イエスのもとに行かなかったのでしょうか。意外に答えは簡単です。実際、その時、イエスのもとで行けなかったの…

ギリシア人の願いとイエスの答え

イエスのエルサレム入城に続き、祭りに上って来ていたギリシア人がイエスを訪ねてきたことを伝えるのはヨハネだけです。彼らは礼拝をするために過越祭に来ていたユダヤ教に改宗したギリシア人でした。当時のユダヤ人の間では、ギリシア人という呼び方は、民…

神みずからの信仰

「ろば」の印象はいつもどことなくもの悲しいものがある。・・・ろばほど雑用に敵した動物はなく、雑用がさげすまれるようにろばもさげすまれ続けてきた。・・・イエスはろばの子に乗ってトボトボと門をくぐる。何と見栄えのないことか。雑用を果たすために、荷駄…

柔和な方で、ロバに乗って

イエスはゼカリヤの預言の成就として、ろばの子に乗ってエルサレムに入城されました。イエスの時代、ユダヤの人々はローマ帝国の占領下にあり、自由を奪われ、貧困に喘いでいました。彼らの願いは、白馬にまたがった英雄的な解放者(メシア)が現れることで…

愛をこめた時間

私たちはイエスに献げるのに「なんのために」と言ってためらい、チャンスを逃しています。「なんのために」と言ったユダはやがて銀貨30枚でイエスを売ってしまいました。怖ろしい「なんのために」です。「なんのために」という問いかけは、動機を探る時には…

愛の本質

ヨハネの福音書は21章ありますが、12章からキリストの最後の1週間が始まります。ですから、ヨハネは福音書の半分を費やして、キリストの最後の一週間を記録していることになります。ここにヨハネが本当に伝えたかったことが記されているのです。 12章は、ラ…

呼ぶべき御名

「呼ぶべき御名」別の言葉で表現すれば、「呼ぶことがゆるされた御名」ということになります。十戒の中に「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。」とあることから、次第にユダヤ人は主の御名を口にすることを畏れ、その名を呼ばなく…