土の器

宮本牧師のブログ

未見の神

未見の我という言葉があります。私たちは、自分自身を全部知っているわけではありません。いろいろな人との出会いやさまざまな経験を通じて「未だ見ざる我」に出会うのです。

洗足の場面で、ペテロの発言や態度は、彼の性格をよく表しています。彼の席が13番目だったとしたら、足を洗ってもらったのも最後です。ようやく自分の番が回ってきた時、彼はずっと我慢していた思いをいっきに吐き出しました。彼は、どうしてあなたが私の足を洗うのかと抵抗したり、私の足は洗わないでいいと拒絶したり、洗わないと関係がなくなると言われると、手も頭も洗ってほしいと要求したり、とにかく自分勝手で極端です。しかし、「関係がなくなる」と言われた後、彼が何も言わなくなるのは、彼がそこで未だ見ぬ我と出会ったからではないでしょうか。

そんな彼がしなければならなかったことは、「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。だから今は何も言わないで、あなたの足を洗わせなさい」と言われるイエスの前に、この足を素直に差し出すことだけでした。イエスが弟子たちの足を洗われたのは、そして私たちの足を洗ってくださるのは、もちろん、その足が汚れているからですが、それ以上に、神の目に私たちが高価で尊い存在だからです。イザヤ書43章4節にこう記されています。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」あなたがどれほど高価で尊いかと言うと、神の子がその位を捨てて、奴隷の姿になることを良しとされるほどです。あなたは、あなたがそんなに尊い存在であることを知っていましたか。

私たちの足もとにひざまずき、汚れた足を洗いたいと手を伸ばしておられる神。この方こそ、未見の我ならぬ、「未見の神」です。