土の器

宮本牧師のブログ

したとおり、するように

私の母教会である高松教会のメンバーで、聖イエス会の初期の時代からの信徒であられたT先生は、すでに故人ですが、開業医で内科のお医者さまでした。先生の病院を通して、多くの方が信仰に導かれました。私の家族もそうです。T先生は私の憧れのクリスチャンです。熱烈なタイプではなく、穏やかな誰からも慕われるような存在でした。ある年の受難週のことでした。聖餐式の前に、洗足式をすることになり、牧師も含め、信徒一同が互いに足を洗い合いましたが、T先生は、背広の上着を脱ぎ、タオルを腰に巻いて、前に座っている人の足を洗われたのです。たまたまその場に居合わせたのですが、今もその姿を忘れることができません。 イエスは弟子たちの足を洗った後、上着を着て、再び席について、「わたしがしたことが分かるか」と語り始められました。ペトロの足を洗うか、洗わないかというやり取りの中で、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われていた「後で」というのが、キリストの十字架と復活を意味しているとするなら、ここで「わたしがしていることが分かるか」と尋ねられるのは、どこか矛盾していることになります。ですから、13節以下の、イエスご自身が、どうして弟子たちの足を洗ったのかということを説明している内容については、後の時代に書き足されたのではないかという考えがあります。そうかもしれません。しかし、後で分かる意味と、今すぐ分かる意味があったとしても、おかしくはありません。 イエスは言われました。「あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」 「互いに足を洗い合う」と言うことについては、この後、34節を見ると、「新しい掟を与える」と前置きがあり、「互いに愛し合いなさい」という言葉に言い換えられています。ですから、洗足とは、愛と謙遜の模範であって、私たちはそうするようにと召されているということです。しかも、「したこと」ではなく、「したとおりに」、つまり外側だけ真似るのではなく、内側から真似ることが求められているのです。 あの夜、誰よりも洗足の意義を学んだであろうペトロはこう勧めています。「愛する人たち、あなたがたに勧めます。・・・神の僕として行動しなさい。・・・あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」 今週も大切なことを大切に。