土の器

宮本牧師のブログ

わたしの枝で

ヨハネ福音書の15章に入ります。14章の最後の所で、食事をした大広間のある家を出てゲッセマネの園に向かって歩み始めた一行でしたが、イエスは何度も立ち止まって弟子たちに話を続けられました。月夜に、ぶどう園が目に入ったのかも知れません。譬え話の名人であるイエスは、ここで有名なぶどうの木の譬えを話されたのです。 
よく読むとぶどうの枝には2種類あることがわかります。実を結ばない枝と実を結ぶ枝です。そして、「実を結ばないものはすべて、(農夫である)父が取り除き」と言われています。聖書の中で、こういう言葉に出会うと、正直戸惑い、恐れを感じます。こういう言葉に出会って、悔い改めに導かれることも大切ですが、イエスの言葉の真意はどこにあったのでしょう。
大切なことは、前提として「わたしの枝で」と呼ばれていることです。ここで「取り除き」と訳されている
ギリシア語の「アイロウ」の正確な意味は、「持ち上げる」「取り上げる」です。当時、パレスチナでぶどう栽培は、ぶどう棚を使ったものではなく、地面を這わせるスタイルのものだったようです。それは乾燥地帯であるパレスチナで、ぶどうの木に夜露や朝露を吸収させるためでした。枝に実を結ばせるためには、枝と地面との間に適度な空間を作る必要がありました。そこで農夫は、大きめの石を地面に敷いて、その上に枝を這わせたのです。そうすることで、光と風、水分が行き届いて、枝は甘い実を結ぶようになるというのです。
愛である神は、ぶどうの木につながっている枝を見捨てるようなお方ではありません。私につながっている枝で実を結ばないものがあれば、農夫である父は身を屈めてそれを持ち上げてくださるのです。信仰が地面を這うように落ち込むことがあっても、神は必ずあなたを引き上げてくださいます。だから、恐れないで、キリストにつながり続けていればよいのです。今はまだ実を結べていなくても。