土の器

宮本牧師のブログ

まことのぶどうの木

ヨハネ福音書の15章に入ります。十字架の前夜、過越の食事となる最後の晩餐が終わった後、弟子たちに語られたイエスの最後の教えが続きます。14章の最後の所で、食事をした大広間のある家を出てゲッセマネの園に向かって歩み始めた一行でしたが、イエスは何度も立ち止まって弟子たちに話を続けられました。月夜に、ぶどう園が目に入ったのかも知れません。譬えの名手であるイエスは、ここで有名なぶどうの木の譬えを話されたのです。 「わたしはぶどうの木、しかもまことのぶどうの木である。」なぜキリストは「まことの」ぶどうの木なのでしょう。今年も桜の季節ですが、桜が日本を象徴する木であるように、聖書の国イスラエルを象徴するのはぶどうの木です。イザヤ書5章7節、「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑」、エレミヤ書2章21節、「わたしはあなたを、甘いぶどうを実らせる、確かな種として植えた」、詩編80編9節、「あなたはぶどうの木をエジプトから移し・・・これを植えられました」など、旧約聖書にはくり返し、イスラエルがぶどうの木また畑として描かれています。 しかし、ほとんどの場合、それらの描写はイスラエルの罪と裁きの記事へと続きます。神はイスラエルを良いぶどうとして植え、大切に手入れし、甘いぶどうが実るのを期待しましたが、実ったのは酸いぶどうでした。イスラエルは、不信仰と不従順によって、神の期待には応えることができなかったのです。その結果、神のぶどう畑は荒れ果ててしまいました。そこで、イエスは「まことの」ぶどうの木として、イスラエルの罪を贖い、神の御心を成就するために来られたのです。ですから、キリストの言葉には、だれでも「まことの」ぶどうの木である私につながっていれば、神の期待に応えて、豊かな実を結ぶことができるようになるという、神の深い愛が示されているのです。 今週も大切なことを大切に。