土の器

宮本牧師のブログ

最後まで

ヨハネ福音書だけではわからない、洗足の真実があります。ルカの福音書によれば、最後の晩餐の席上、弟子たちがあることで議論を始めています。それは「だれが一番偉いのか」という議論です。『日本人に贈る聖書ものがたり』で、この場面が席順を決める話しから始まっているのは、とても自然で、納得させられる描写です。 そういうことなら、「だれが一番偉いのか」という議論が始まったというのも、うなずけます。そこでイエスは十字架を前に、大切な教えを語られました。

「あなたがたの間で一番偉い人は、一番若い者のようになり、上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい。食卓に着く人と給仕をする者と、どちらが偉いでしょうか。食卓に着く人ではありませんか。しかし、わたしはあなたがたの間で、給仕する者のようにしています。」

もしヨハネ福音書につなげるなら、そう言ってから、イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれたと続くのでしょう。

イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを知り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく、最後まで、とことんまで愛し抜かれたのです。「最後まで」と訳されているギリシア語は「テロス」という言葉ですが、時間的は「最後まで」、程度においては「極限まで、徹底的に」という意味で、ヨハネ福音書13章の場合は、両方の意味を含んでいます。しかし、もう一歩進んで考えるなら、神の愛は十字架で終わったのではなく、今も続いているということではないでしょうか。私たちが御国に行くその日まで、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられるその日まで、最後まで、愛してくださるのです。この愛を私たちもとことん信じて祈り続けます。「私の救いの原因である十字架、私を清め神化する十字架、天国の道である十字架、私のすべてである十字架」と。