土の器

宮本牧師のブログ

ゲッセマネの祈りと主の祈り

「一粒の麦」の譬えを通して、ご自分の死と復活について語られたイエスが、突然、ご自分の心のうちを吐露されました。この場面は、「ヨハネ福音書のゲッセマネ」と呼ばれる箇所です。ヨハネ福音書には、共観福音書に見られるゲッセマネの祈りが記録されていませんが、ヨハネはその代わりに、「一粒の麦」の譬えに続けて、心を騒がせ、苦悶するキリストの姿を秘かに、ここに描きました。

十字架の前夜、ゲッセマネの園で、血の汗を流し、もだえるように祈られたイエスは、全人類の罪が盛られた杯を前に、「この杯を過ぎ去らせてください」と願いましたが、同時に「わたしの願いのままにではなく、御心のままになさってください」と祈りました。

キリストは、最初の人アダムの罪から始まり、最後の人の最後の罪に至るまで、全人類の過去、現在、未来に及ぶ、すべての罪を背負い、一粒の麦となって死んでくださったのです。

ヨハネはそのゲッセマネの祈りを、ここで聞きました。「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」

私たちは、「御心がなりますように」、いつもそう祈るように教えられています。しかし、それは「御名の栄光を現してください(御名があがめられますように)」との祈りでもあるのです。

それはイエスが教えてくださったあの「主の祈り」そのままです。「父よ、御名があがめられますように。御心が行われますように。」今日、このキリストの心を心としましょう。