土の器

宮本牧師のブログ

一粒の麦

イエス・キリストが十字架にかかられる時が近づいていました。イエスは有名な「一粒の麦」の譬えを通して、ご自分の死と復活について、またその死がもたらす結果について語られました。共観福音書では、もう少し早い時点で、イエスが受難の予告をされ、その直後に、イエスに従おうとする者の覚悟が語られますが、ヨハネは同じ内容を、このタイミングで、「一粒の麦」という譬えを通して印象的に伝えます。イエスは「人の子が栄光を受ける時が来ました」と前置きし、その譬えを語り始められています。

「まことに、まことに」というフレーズは、ヨハネが好んで用いたフレーズです。原文のギリシア語では「アーメン、アーメン」となっていますが、今から話すことは嘘ではありません。真実です、と重大な発言をするときに、念を押す言い方です。

一粒の麦の譬えは、自然界の事実です。麦粒が地に落ちて発芽する事実を、その麦粒が「死ぬ」と表現することで、これをイエスの死と重ね合わせ、イエスの死が持つ意義を語っています。つまり、イエスが死ぬことによって、多くの人が真実の命に生きるようになるという福音の奥義が、譬えを使って宣言されているのです。

ここで、「一粒の麦」とは、まずイエス・キリスト御自身のことです。 神の子イエス・キリストが、一粒の麦となって全人類の罪の身代わりとなり、十字架にかかって死んで下さったことで、人類に罪のゆるしと永遠の命が与えられるようになりました。キリストの十字架の効力は今も有効なので、イエス・キリストを自分の救い主、自分の神と信じ受け入れる人々の心に、永遠の命の実を結び続けているのです。

さらに、「一粒の麦」とは、私たち一人一人のことです。人生には、さまざまな悩み苦しみがあります。自分ではどうしようもない問題もありますが、自分に死ぬことができないところに、悩み苦しみの原因がある場合もあります。いつでも、「私が」「私が」と自己を主張し、自分の考えや思いを押し通すために、人を傷つけ、平和を乱し、新たな混沌を作り出しているのです。

「自分に死ぬ」とは具体的にどういうことなのでしょうか。第1に、イエス・キリストの御生涯をお手本としてよく学び、キリストの心をあなたの心とすることです。第2に、「自分に死ぬ」とは、自分のことよりも、他者のことを先に考えることです。一に自分、二にも自分、三にも自分という自分ファーストの生き方からは、決して幸せは生まれきません。そこには、いらだちと不平不満、愚痴だけが残ります。一にイエス・キリスト(Jesus)、二に他の人々(Others)、三にあなた(You)。この英語の頭文字をつなぎ合わせるとどうなるでしょう。JOY「喜び」となるのです。あなたがこの順序を守り続けるなら、あなたの人生は喜びに満ちた、豊かな実を結ぶ人生となるでしょう。