土の器

宮本牧師のブログ

尊い一粒の麦よ

聖イエス会の情報誌『あかしびと』で、「すばらしいクリスチャンたち」という連載が続いていますが、まもなく届く7月号に、今年は没後80年と言うことで、重利清子ちゃんのことが紹介されています。 「今年(2017年)は、重利清子ちゃん没後80周年にあたります。神を見、『平安』という言葉を遺して天に召された清子ちゃんの存在は、聖イエス会にとって『恩寵』そのものであるといえます」と書き出される文章を読みながら、聖イエス会に重利清子ちゃんを与えてくださった神に感謝の思いを新たにしました。 1929(昭和4)年、中国の瀋陽(当時の満州奉天)で生まれた清子ちゃんは、生まれつき体が弱く、右足が不自由で、学校の行き帰りにはいつもいじめにあい、8歳にして、すでに生きることの苦しみと悲しみを味わっていましたが、教会に導かれ、聖書を通して、神の愛を知りました。1937(昭和12)年12月、風邪がもとで、床に伏していた清子ちゃんは、祈りの中で突然こう言って顔を輝かせました。「もうだいじょうぶ。清子はエス様を見たからうれしい!」と。その3日後の12月12日、「平安、平安、平安」と、3度くり返して、清子ちゃんは8歳と10カ月の生涯を終えて、愛し慕ったキリストのもとへ召されていきました。 清子ちゃんの言葉とその姿は、聖イエス会の創立者である大槻牧師を、神との出会いに導きました。そして今、御名による神との出会いの体験は、イエスを神の子メシアと信じる、私たち一人一人にも与えられているのです。大槻牧師は、清子ちゃんの葬儀に「一粒の麦」という告別説教を語り、最後にこう言っています。 「私たちは何のために選ばれ、召されたのか。それは『一粒の麦』となるためである。・・・私たちは、なぜ神の栄光を充分に現すことができないのか。それは、徹底的に自己を十字架につけて、全く死に切っていないからである。自分を捨て、十字架を負い、主に従うこれ以外に、神の栄光を拝する道は絶対にないのである。 清子ちゃんは、一粒の麦として散ったのである。・・・尊い尊い一粒の麦よ! すでに種は地にまかれた。清子ちゃんは、清きが故に、良き種として選ばれ、神の栄光のためにまかれたのである。主は必ず、この尊い選ばれた一粒の麦を祝し、豊かな収穫を、リバイバルを与えてくださると、信じて疑わない。ああ、一粒の麦は地に落ちた。やがて春が来ると、この一粒の麦は芽を出し、多くの果を結ぶであろう。」