土の器

宮本牧師のブログ

ギリシア人の願いとイエスの答え

エスエルサレム入城に続き、祭りに上って来ていたギリシア人がイエスを訪ねてきたことを伝えるのはヨハネだけです。彼らは礼拝をするために過越祭に来ていたユダヤ教に改宗したギリシア人でした。当時のユダヤ人の間では、ギリシア人という呼び方は、民族とか国籍を指すと言うより、ユダヤ教徒から見た非ユダヤ教徒を指す用語であったようです。たとえば、パウロはローマの信徒への手紙の1章で、「福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です」と記しましたが、ここでもギリシア人という呼び方は、ユダヤ人以外の外国人(異邦人)全体を指しています。つまり、異邦人を代表したギリシア人の登場によって、イエスの死の意味が明らかにされていくというのが、この場面で語れる「一粒の麦」のたとえの意義なのです。

 ギリシア人は弟子のピリポに申し出ました。「お願いします。イエスにお目にかかりたいのです」と。彼らの願いを聞かれ、イエスは語られました。「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」ギリシア人の願いを聞いた反応として、当を得ていない言葉のように感じるかも知れませんが、ここで語れた真理は、彼らへの答えであり、これから起こるべきことを明らかにするものでした。イエスは「一粒の麦」の譬えを通して、ご自分の死と復活のプログラムを語れたのです。イエスは感動し、興奮しながら、ついに「人の子が栄光を受ける時がまし来た」と語り始めました。これまでもしばしば、「わたしの時」と語れたことがありました。また「栄光のため」とも、くり返し語られて来ましたが、ついにその時が来たと言うのです。その時とは、豊かな実を結ぶために、イエスが一粒の麦として地に落ちて死ぬ時を指していたのです。