土の器

宮本牧師のブログ

真心から神に近づこう

「われらイエスに謁えんことを願う」と言いながら、どうしてギリシア人たちは直接イエスのところに行かなかったのでしょう。いろいろ理由が考えられますが、意外に答えは簡単かもしれません。行かなかったのではなく、行けなかったのです。エルサレムの神殿は、いくつかのエリアがあって、それぞれそこに入るのに条件がありました。神殿の境内の外回りは、異邦人の庭と呼ばれる広いスペースです。その次に婦人の庭、さらに門をくぐってイスラエルの庭、更に境内から本殿に入ると聖所があり、その奥に、至聖所と言われる場所がありました。 改宗したギリシア人が入ることが許されていたのは、異邦人の庭までであって、イエスは婦人の庭かイスラエルの庭におられたのでしょう。彼らは会いたくても、会いに行くことができなかったのです。両者の間には「隔ての壁」があったからです。この「隔ての壁」について、パウロがエフェソの信徒への手紙の2章でこう言っています。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」 キリストは十字架によって「隔ての壁」を取り除かれました。ここで言われている「隔ての壁」とは、モーセの律法のことです。そのモーセの律法が、キリストの十字架によって、すべて成就したので、だれでも信じるだけで神に近づくことの出来る恵みの時代が訪れたのです。キリストが一粒の麦となって死ぬことによってです。 「キリストはおいでになり、遠くに離れているあなたがた(異邦人)も、また、近くにいる人々(ユダヤ人)にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによって私たち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」 私たちは、一粒の麦となられたイエスの血(十字架)によって聖所に入れると確信しています。一粒の麦となられたイエスは、新しい生きた道を私たちのために開いてくださったのです。だから、「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」「君よ、われらイエスに謁えんことを願う。」 6月に入りました。次の日曜日は、6月のオープン礼拝です。ぜひお出かけください。