土の器

宮本牧師のブログ

われらイエスに謁えんことを願う

エスエルサレム入城に続き、祭りに上って来ていたギリシア人がイエスを訪ねてきたことを伝えるのはヨハネだけです。彼らは礼拝をするために過越祭に来ていたユダヤ教に改宗したギリシア人でした。当時のユダヤ人の間では、ギリシア人という呼び方は、民族とか国籍を指すと言うより、ユダヤ教徒から見た非ユダヤ教徒を指す用語であったようです。たとえば、パウロはローマの信徒への手紙の1章で、「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」と記しましたが、ここでもギリシア人という呼び方は、ユダヤ人以外の外国人(異邦人)全体を指しています。つまり、異邦人を代表したギリシア人の登場によって、イエスの死の意味が明らかにされていくというのが、一粒の麦のたとえの意義なのです。 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとに来て、イエスとの会見を願いました。ここで、フィリポのことが出身地から紹介されていますが、ガリラヤのベトサイダは、ギリシア人が多く住む町で、フィリポという名前も、実はギリシア名です。彼について、他の福音書では、その名前は12弟子のリストには出て来るだけで、実際は一度も登場してきませんが、ヨハネ福音書には、彼が何度か登場してきます。さて、フィリポはどうしたでしょう。彼は仲間のアンデレに相談し、それから二人でイエスのもとに行っています。考えてみれば、これまでイエスの宣教の対象はユダヤ人に限定されていました。例外的に、ローマの百人隊長の僕の癒しや、カナンの女の娘の癒しなどはありましたが、その時でさえ、イエスの態度は決して積極的ではありませんでした。フィリポはそのことで躊躇していたかも知れません。そこでアンデレが行動したのです。アンデレも、他の福音書には名前が上げられているだけですが、ヨハネ福音書では、1章でシモン・ペトロをイエスに導き、6章ではお弁当箱を持った少年をイエスに導き、そしてここでは、ギリシア人をイエスに導くという大切な役目を果たしていきます。そこで、一人が一人を、一人ずつ導くことを、「アンデレ伝道」と言います。私たちがキリストのもとに導かれるためにも、誰かがアンデレとなってくれたのではないでしょうか。 ギリシア人は言いました。「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです。」文語訳聖書は美しい響きの日本語で印象的です。「君よ、われらイエスに謁(まみ)えんことを願う。」謁見の謁と書いて「まみえる」、非常に丁寧な言い方ですが、彼らが高貴で偉大な方との会見を願っていたことがわかります。以前、この言葉から、人々は何を求めて礼拝に来ているのか。説教者は、それをいつも確認しながら、御言葉を語らなければならないと教えていただいたことがありました。以来、説教台の上に、この御言葉を書いたメモを置くようになりました。しかし、これは説教者の心得というよりも、礼拝者の心得です。私たち何を求めて礼拝に集まるのでしょうか。いつもそのことを自分自身に問いかける必要があるでしょう。「われらイエスに謁えんことを願う。」 今週も大切なことを大切に。