土の器

宮本牧師のブログ

隔ての壁を打ち壊し

キリストの死の1週間前、「君よ、われらイエスに謁えんことを願う」と言って、弟子ピリポのところにやって来たギリシア人たちは、どうして直接、イエスのもとに行かなかったのでしょうか。意外に答えは簡単です。実際、その時、イエスのもとで行けなかったのです。エルサレムの神殿は、いくつかのエリアがあって、それぞれそこに入るのに条件がありました。神殿の境内の外回りは、異邦人の庭と呼ばれるスペースです。その次に婦人の庭、さらに門をくぐってイスラエルの庭、更に神殿に入り、聖所があり、その奥に、神の現存のシンボルである契約の箱が安置されている至聖所があります。

改宗したギリシア人が入ることが許されていたのは、異邦人の庭までであって、きっとその時、イエスはイスラエルの庭におられたのでしょう。彼らは会いたくても、会いに行くことができなかったのです。両者の間には「隔ての壁」があったからです。

この「隔ての壁」について、パウロがエペソ人への手紙の2章でこう言っています。「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規則からなる戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました」と。

十字架によって、隔ての壁は取り除かれました。ここで言われている「隔ての壁」とは、モーセの律法のことです。そのモーセの律法が、キリストの十字架によって、すべて成就したので、だれでも信じるだけで救われる恵みの時代が訪れたのです。キリストが一粒の麦となって死ぬことによってです。

ですから、今や、はばかることなく、だれでもイエスに近づくことができるのです。パウロがエペソ人への手紙を書いたのは、ローマの獄中においてと言われていますが、なぜ投獄されていたかというと、異邦人を神殿に引き入れたというあらぬ疑いをかけられてのことでしたが、裁判でそのことを争っている最中に、パウロはこの手紙を書いているのです。

「キリストは来て、遠くにいたあなたがた(異邦人)にも平和を、また近くにいた人々(ユダヤ人)にも平和を、福音として伝えられました。このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。」

私たちは、一粒の麦となられたイエスの血によって聖所に入れると確信しています。一粒の麦となられたイエスは、新しい生きた道を私たちのために開いてくださったのです。だから、「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」