土の器

宮本牧師のブログ

「ひとりも滅びないで」の本気

舞台は仮庵の祭りです。一週間続く祭りも半ばを迎えていました。それまで身を潜めていたイエスが、半年後に近づいていた十字架の時を意識しながら、神殿の境内に姿を現し、教え始められました。その教えに驚いているユダヤの宗教指導者たちとのやり取りが始まりますが、19節から話題がさらに展開して行きます。イエスは、彼らがモーセの律法を守っていないと鋭く指摘し、「なぜ、わたしを殺そうとするのか」と宗教指導者たちの殺意を暴かれました。すると群衆が答えます。あまりに話題が飛躍したからでしょうか。宗教家たちではなく、周りにいた群衆がものを申したのです。「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうというのか」と。 「悪霊に取りつかれている」とのイエスへの批判は他の福音書にも見られるものです。人々はイエスを「あの男はベルゼブルに取りつかれている」とか「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていました。しかし、よく読むと同じ箇所に「あの男は気が変になっている」とも書かれています。今日の箇所も同じで、「悪霊に取りつかれている」という箇所が、詳訳聖書では「あなたは乱心している」と訳され、リビングバイブルでは「気でも狂ったんじゃないか」と訳されています。ですから、言わんとするところは、「悪霊に・・・」と言いながら、イエスの言動が理解できない、あり得ない、頭がおかしくなったんじゃないの、ということなのです。 使徒パウロもこ同じようなことを経験しました。パウロがアグリッパ王の前で弁明をする場面ですが、彼があまりに熱狂的に語るので、そばにいたローマ総督フェストゥスが「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなたのだ」と言うのです。パウロ自身、コリントの教会に宛てた手紙の中で、私は「気が変になったように言いますが」とか、「もしわたしたちが気が狂って いるのなら」と書き、「私の心が燃やされないでいられるでしょうか」と熱く語りかけています。ここからわかることは、覚えておきたいことは、イエス・キリストも、パウロも、狂人と思われるほど熱い近づけば火傷をするほどの存在だったのです。 ではキリストの熱さ、情熱はどこから来ていたのでしょうか。何のためだったのでしょうか。ニコデモに「人の子は十字架に上げられなければならない」と語った夜、ヨハネの心に閃いた言葉がそれです。ヨハネ3章16節、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 日本のクリスチャンの人口は1%と言われます。そこで私たち日本のクリスチャンは考えます。「1%の壁を破ろう!」と、でもそういう時の目標設定は意外にも2%だったりします。信仰の大きな方なら10%と言われるでしょうか。でも、それはまちがいです。キリストの情熱は「一人も滅びないで」、つまり100%です。これを聞いて、気が狂っていると言われるでしょうか。しかし、これがキリストをキリストたらしめている、キリストの情熱、本気なのです。 今週も大切なことを大切に。 今日は編集会議で京都です。