土の器

宮本牧師のブログ

かかとを上げます

エスは、ご自分が裏切られることについて詩篇の言葉を引用して語られていました。「聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます』とかいてあることは成就する。」これは詩篇41編9節の引用ですが、サムエル記下15章に記されている故事に由来します。詩篇の方では「私が信頼した親しい友が、私のパンを食べている者までが、私に向かって、かかとを上げます」となっています。
あのダビデ王が、息子アブサロムのクーデーターによって失脚させられたとき、ダビデの腹心の友であったアヒトフェルがアブサロムに寝返り、ダビデにかかとを上げたのです。彼はダビデの片腕であり、良き理解者であり、親しい友でした。その彼がダビデを裏切ってアブサロムのもとに走り、ダビデの殺害計画まで立てたのです。
「かかとを上げる」という表現は、馬がかかとを上げて飼い主を蹴る姿から来ているようですが、日本のことわざで言えば「飼い犬に手をかまれる」と言ったところでしょうか。動物であるから仕方がないと分かっていても、飼い主にとっては心の痛む経験でしょう。まして、馬や犬とはちがって、心を持つ人間の場合、しかもそれが親しい友から受ける仕打ちであるなら、その苦悩はどれほどでしょうか。
その後、アヒトフェルは、自分が立てたダビデ殺害計画が無効とされ、ライバルであった議官フシャイの策が重んじられたことに落胆し、自ら首を吊って自害してしまいます。それは、ちょうど、イエスを裏切り、自分を悔いて首を吊ってしまったユダの姿とも重なります。ダビデが経験した親しい友の裏切りとその死が、ユダと直接関わっているということではありませんが、ダビデの経験した激しい苦悩の中に、やがて来たるまことの王が味わう激しい苦悩の一端が映し出されていたのです。
私たちはイスカリオテのユダの話を聞く時、ユダのことを考えます。しかし、ヨハネはここでイエスの言葉として、詩篇を引用し、「聖書に……書いてあることは成就するのです」と記しています。ユダの裏切りではなく、腹心の友に裏切られるイエスの心を、ヨハネは伝えたかったのではないでしょうか。
エスは、パン切れを浸して取り、左の席に座っていたイスカリオテのシモンの子ユダに、それを渡しました。一切れのパンを浸して与えるとは、主人が大切な客人に対して示すもてなしの行為であり、特別なことでした。「ユダよ、わたしはあなたをこの上なく、最後まで愛している。帰って来てほしい。」それはイエスの最後の訴えでした。何という愛でしょう。しかし、「これを受け取った者が裏切り者だ」とささやくイエスの声を聞きながら、ユダはそれを受け取ったのです。マタイ福音書の並行箇所を読むと、ユダは言います。「先生、まさか私ではないでしょう。」なにくわぬ顔をして尋ねるユダ。彼には、イエスの愛が届きませんでした。彼がパン切れを受け取ると、イエスは「しようとしていることを、すぐしなさい」と言われました。ユダはすぐに出て行きました。ここで確認しておきたいことがありますが、イエスに敵対する者たち、実際にイエスを十字架に付ける人たちの側では、多くの人で賑わう祭りの期間は避けて、それを実行しようということになっていたのに、神の時計によると、全人類の救いのための救い主の死は、どうしても過越の小羊が屠られる日でなければなりませんでした。そこで、「しようとしていることを、すぐしなさい」とイエスがシモンの背中を押されたのです。
エスは自ら十字架の道を進んで行かれます。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためでした。何という愛でしょう。