土の器

宮本牧師のブログ

夜であった

ヨハネ福音書の13章21節からの「裏切りの予告」と小見出しが付けられている部分は、恵まれる内容のない箇所のように思われるかも知れませんが、ここにも深い神の愛を見いだすことができます。13章の冒頭で、イエスが世にいる弟子たちを「この上なく愛し抜かれた」、最後まで、徹底的に、とことん愛し通されたという御言葉を学びましたが、ユダはどうだったのかという疑問を抱きます。しかし、「裏切りの予告」の記事におけるイエスの言葉と仕草を見る限り、イエスがユダを最後まで、この上なく愛し通されたと言わざるを得ません。 イエスは弟子たちの足を洗い、大切な決別の説教を始める前に、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と予告しました。レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」は、この予告がなされた場面を描いたものです。弟子たちは落ち着かない様子で「主よ、まさか私のことでは」と代わる代わる言い出します。 ここで大切なのが席順です。ダ・ヴィンチの絵は西洋化されたテーブルを描いた、それも横一列というあまりにも不自然な構図ですが、実際はコの字型の低いテーブルを、イエスを含め13人が囲んでいただろうと考えられています。当時の習慣では、左肘を着いて、足を横に投げ出すように、過越の食事をしていましたが、2番が主人の席、その両隣が主賓の席と決まっていました。ペトロはその席を期待していましたが、実際には末席に座らされていたようです。イエスの右側、1番の席には、イエスの愛しておられた弟子と自らを紹介するヨハネが座っていたました。「イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた」とある通りです。それだと、ペトロと向かい合う席に座っていたことになりますが、ペトロは裏切り者が誰なのか、イエスに尋ねるようにヨハネに合図を送りました。ヨハネは、その合図に気付き、イエスの胸もとに寄りかかった状態で、「主よ、それはだれのことですか」と尋ねます。するとイエスは小さな声で答えました。「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ。」 すでにイエスは18節でも、ご自分が裏切られることについて詩編の言葉を引用して語られていました。「しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない」と。これは詩編41編10節の引用ですが、サムエル記下15章に記されている故事が背景にあります。あのダビデ王が、息子アブサロムのクーデーターによって失脚させられたとき、ダビデの腹心の友であったアヒトフェルがアブサロムに寝返えり、ダビデにかかとを上げたのです。そこでイエスは、パン切れを浸して取り、左側の席に座っていたであろうイスカリオテのユダに、それを渡されました。ダビデはキリストのシンボルですが、キリストもダビデと同じように、腹心の友と思っていたユダの裏切りを経験されます。 この一切れのパンを浸して与えるという行為は、主人が大切な客人に対して示すもてなしの行為であり、特別なことでした。ですから、それは「ユダよ、私はあなたをこの上なく愛している。私のもとに帰って来てほしい」という最後の訴えでだったのです。なんという愛でしょう。しかし、ユダは「これを受け取った者が裏切り者だ」とささやくイエスの声を傍で聞きながら、なにくわぬ顔でそれを受け取ったのです。その結果、ユダは、愛には愛を持って応えることのできなかった残念な人になってしまいました。イエスは彼に「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と言われました。ユダはすぐに出て行きました。ヨハネはその場面を印象的に描きます。「ユダはパン切れを受け取ると、すぐに出て行った。夜であった」と。 今週も大切なことを大切に。