土の器

宮本牧師のブログ

霊的な暗闇と渇き

ヨハネは十字架の傍らで、イエスが十字架上で語られた7つの言葉を聞きましたが、彼はその中から、第3の言葉、第5の言葉、第6の言葉の3つを選んで福音書に記しています。第5の言葉はこうです。「この後(すなわち第3の言葉を語られた後、ほんとうは第4の言葉があるのですが)、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。」 ヨハネが聞いた「渇く」という言葉は、イエスが神の子であり、人の子でもあるという神学を一貫して述べてきたヨハネにとって重要でした。人の子であるイエスは、文字どおり、激しい肉体の渇き、焼けるような喉の渇きを訴えられたからです。しかし、ヨハネはそれを「こうして、聖書が実現した」とも記しています。つまり、救い主が「渇く」と言うことは、聖書に書かれていたことの成就だったのです。 詩編には、やがて来られるメシアのひな型と言われるダビデが経験した苦難が随所に記されています。実際に、ダビデが受けた苦難は、やがて来られるメシアの受ける苦難を映し出していました。弟子に裏切られること、下着がくじ引きでわけられること、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という叫びまでダビデの経験として詩編に出て来ます。そして、詩編69編にはこう記されています。「叫び続けて疲れ、喉は涸れ(のどは渇き)、わたしの神を待ち望むあまり、目は衰えてしまいました。」「人は私に苦いものを食べさせようとし、渇くわたしに酢を飲ませようとします」と。 ここに人々の敵意とあざけりに疲れ果て、渇きを訴える主の僕メシアの姿を見ます。ダビデはそのとき、深い沼にはまり込み、極度の渇きを覚えていました。神に叫んでも叫んでも答えてもらえず、疲れ果て喉は涸れてしまいました。これは、神との親しい交わりを失われ、恐ろしいほどの孤独の中に引きずり込まれていくような霊的な暗闇の経験です。ダビデも、イエスもその暗闇、渇きを経験したのです。実は、それが十字架の第4の言葉です。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」