土の器

宮本牧師のブログ

とことんまで愛された

ヨハネ福音書だけではわからない、洗足の真実があります。ルカによれば、最後の晩餐の席上、弟子たちがあることで議論を始めています。その議論とは、「だれがいちばん偉いのか」ということです。『日本人に贈る聖書ものがたり』で、この場面が席順を決める話しから始まっているのは、とても自然で、納得させられる描写です。 そういうことなら、「だれがいちばん偉いのか」という議論が始まったというのも、うなずけます。そこでイエスは十字架を前に、大切な教えを語られました。ルカによる福音書22章26節以下、「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。食事の席に着く人と給仕をする者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」もしヨハネ福音書につなげるなら、そう言ってから、イエスは食事の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれ、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い始めたのかもしれません。 ヨハネは、ここで「イエスは、・・・御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と前置きしていますが、「この上なく愛し抜かれた」という部分を他の訳と比較してみましょう。口語訳は「彼らを最後まで愛し通された。」詳訳聖書は新共同訳と口語訳を合わせた訳で「彼らを最後まで〈この上なく〉愛された。」新改訳聖書は「その愛を残るところなく示された。」リビングバイブルも同様に「愛を余すところなく示されました。」フランシスコ会訳は「限りない愛をお示しになった。」文語訳は「極みまで之を愛し給へり。」岩波訳も「極みまで愛した。」 ギリシア語では「テロス」という言葉が使われていますが、時間的は「最後まで」、程度においては「極限まで、徹底的に」という意味で、ヨハネ福音書13章の場合は、その両方の意味を含んでいると考えられます。十字架の前夜、キリストの愛は最高潮に達していたということです。しかし、もう一歩進んで考えるなら、神の愛は十字架で終わったのではなく、今も続いているということではないでしょうか。私たちが御国に行くその日まで、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられるその日まで、最後まで、愛してくださるのです。 ちなみに、新約聖書に40回、テロスという言葉が使われますが、一番最後に使われるのは、ヨハネの黙示録22章13節、今年の御名の聖書箇所です。「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者、初めであり、終わりである。」私たちのしんがりとなってくださる神は、弟子たちの汚れた足を洗うことによって、とことんまで愛される愛を示されたのです。この愛を私たちもとことん信じて祈り続けます。「私の救いの原因である十字架、私を清め神化する十字架、天国の道である十字架、私のすべてである十字架」と。 次の日曜日は8月のオープン礼拝です。暑い時期ですが、ぜひお出かけください。