土の器

宮本牧師のブログ

神みずからの信仰

「ろば」の印象はいつもどことなくもの悲しいものがある。・・・ろばほど雑用に敵した動物はなく、雑用がさげすまれるようにろばもさげすまれ続けてきた。・・・イエスはろばの子に乗ってトボトボと門をくぐる。何と見栄えのないことか。雑用を果たすために、荷駄のごとくろばの背に乗って町へやって来たとでも言うように。

「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、私が示す山で彼を燔祭としてささげない」と神様から命じられたアブラハムのことが思い起こされる。その時、彼はろばを連れて行った。三日間の旅を時には燔祭に用いる蒔きに代えて、わが子イサクをろばの背に乗せて進んだにちがいない。神の理不尽な命令に納得のいかないまま旅する三日間がどんなに長かったことか。・・・神様の御言葉のままにイサクを殺そうとした時、「あなたの子、あなたのひとり子をさえ、私のために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることを私は知った」という神の声が聞こえてくる。

今ここで、アブラハムに代わり、神みずからがその独り子イエスを死に渡すために、「ろばの子」に乗せてゴルゴタの丘の見えるエルサレムへと旅を進めさせている。「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とパウロも述べたことが、今ここで、神みずからが義とされるために、その独り子を死に渡して神みずからの信仰を示そうとされる。かつてアブラハムが神に対して示した信仰を、今は神が人に対して示そうとされる。ここに福音がある。私たちが神を信じるのではない。神が私たちを信じるのだ。私たちがイエス・キリストを信じて救われるのではない。イエス・キリストが私たちを信じるゆえに、私たちは救われるのだ。そしてその時の乗り物が「ろば」であった。(『手さぐり聖書入門(マルコ福音書による黙想)』)

 

なんと深い聖書理解でしょうか。信仰の父アブラハムがその独り子イサクをささげようとするあの物語に、ろばの子に揺られてエルサレムに入城されるイエスの姿が隠されていたというのです。そして、あの日、アブラハムが神に対して示した信仰を、神が人に対して示そうとされているというのです。その神の信仰を、ヨハネは声を大にして告白します。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」