土の器

宮本牧師のブログ

新旧の双璧

イザヤは旧約、最大の預言者であり、旧約の最高峰です。一方、ヨハネは新約の最高峰であり、旧新約聖書の双璧が、イエスの栄光を証言します。イザヤは何を見たのでしょうか。

紀元前742年、神の寵愛を受けながら、最後に傲慢によって失脚したウジヤ王が死にました。その年、イザヤが神殿に入ると、神殿は主の栄光に満たされ、天使の賛美が聞こえてきます。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主、主の栄光は全地に満ちる。」ここで3度くり返して、「聖なる」と歌われていますが、ヘブライ語では最も強い強調法です。聖書には、神の性質がいろいろな言葉で述べられていますが、3度くり返して使われるのは、「聖」だけです。

そこでイザヤが口を開きます。「私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる」と。他の訳では、「私は滅んでしまう」の前に、「災いだ」という言葉が入っています。イザヤ書5章を見ると、不信仰の民に向かって、「災いだ」と5回もくり返していますが、どれも他者を呪い、裁く言葉です。災いの原因は「あなただ」と言っていたのです。しかし、彼は神の清さに触れた時、「私こそ災いであった」と叫ばずにいられませんでした。

神の清さに触れられ、「私は災いだ」と叫ぶ正直な唇を、聖なる神は、祭壇から取った炭火を持って清められます。そして、その時、「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか」と言われる主の声をイザヤは聞きました。私たちに「行け」と絶対的な権威を持って命じることのできるお方が、イザヤに懇願しておられるのです。イザヤは自分がふさわしくないことを重々知りながらも、神の招きに、その愛に迫られて「ここに私がおります」と応えます。彼は、祭壇から取られた火で清められた自分と、自分の全生涯を、焼き尽くすいけにえとして、主の祭壇にささげたのです。私たちもイザヤと共に、この震える手を上げながら答えようではありませんか。