土の器

宮本牧師のブログ

そもそも自分は

「そして、イエスは再びヨルダンの川向こう、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた場所に行き、そこに滞在された。」

バプテスマのヨハネのことを覚えていますか。彼は、自分の所に悔い改めのバプテスマを受けに来る群衆に向かって、「私の後から来る方は偉大なお方で、私はその履物の紐を解く資格もない」と語り、イエスが現れ、イエスの上に御霊が降るのを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と、イエスを証ししました。

そして今、何が起こっているのでしょうか。「多くの人々がイエスのところに来た。彼らは『ヨハネは何もしるしを行わなかったが、この方についてヨハネが話したことはすべて真実であった』と言った。そして、その地で多くの人々がイエスを信じた」と言うのです。これはヨハネ福音書の前半を統べくくる結論のようにも聞こえます。この方についてヨハネが話したことはすべて真実であった。」

イエスはこの後、いよいよ十字架にかかるために、再びヨルダンを渡るのです。今回ここを学びながら、私には、まるでイエスがご自分の原点に立ち帰られたように思えました。ヨハネから洗礼を受け、御霊を注がれ、天からの声を聞き、「世の罪を除く神の子羊」と言われた、ご自分の原点に立ち戻られたのではないでしょうか。同時に、福音書を記すヨハネは、読者である私たちにも、原点に帰ろうと呼びかけているように思えるのです。

『ふり返る祈り』という本あります。京都に来て以来、ずっと月報で紹介していた短い祈りは、この本から取ったものです。祈りと共に、その祈りにまつわるエピソードが記されていますが、「そもそも自分は」という祈りのページに、こんなことが記されています。

もう20年近くも前ですが、かかりつけの医院で診察を受けていると、医者がポツポツと語り始めました。「私は物事に迷うと、そもそも自分は何でこれをやっているのかと、自分の原点に戻ろうとします。そうすると、今の自分がすべきことが見えてくるんです。」問うてもいないのに医者が突然そう語り始めたので、少し驚くとともに、私は何か天の声を聞いているような気持ちになりました。……私はその時、自分がどのような状況に置かれていたか覚えていないのですが、何かに迷っていたのに違いありません。この言葉が鮮明に心に残ったのです。

イエスがヨルダンの川向こうに行かれたのは、十字架の数カ月前です。イエスがその時、何かに迷っていたとは思いませんが、十字架に立ち向かう前に、自分の原点に戻り、自分がなすべきことを確かめられたのではないかと思うのです。この本を書かれた牧師先生はこんな祈りを綴っています。

「神様、私たちが判断に迷ったときは、私たちの思いを原点へと戻してください。そもそも自分はここで何をやっているのか、何のためにしているのか、何に向かっているのか、もう一度思い出させてください。そして、あなたの御前に立つときにあなたに喜んでいただけるのはどのような私の行動であるか、考えさせてください。そうすれば、主よ、私の今すべきことが見えてきます。」