土の器

宮本牧師のブログ

進み出て

ヨハネ福音書には、有名なゲッセマネの祈りと呼ばれる場面がありません。マタイも、マルコも、ルカも、カメラのフォーカスを丁寧に合わせて、細心の注意を払って映し出したイエスの苦悶する表情を、ヨハネだけは捉えませんでした。すでに17章で別の祈りを記したヨハネは、ゲッセマネの園を、ただイエスの逮捕劇を中心に、しかも、テンポの良いカメラワークで、彼独自のメッセージを織り込みます。
「イエスはご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられたので、進み出て、『だれを捜しているのか』と彼らに言われた。」ヨハネはこれまで、十字架こそイエスが栄光を受ける時と語り続けてきましたが、ゲッセマネにおける逮捕の場面においても、一連の出来事の主導権をイエスが握り、イエスが先導しているように記しています。ある人は「キリストが神の子なら、どうしてあの夜、逃げることができなかったのか。彼は自分を師と仰ぎ、救い主と信じていた人たちに裏切られ、見捨てられ、あえなく捕らえられたのだ」と言います。しかし、イエスは自ら進んで十字架に向かって行かれたのです。
ヨハネ福音書10章11節以下、「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。……だれもわたしからいのちを取りません(奪い取ることはでません)。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」
「人は自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。」
それは愛、愛、愛です。