土の器

宮本牧師のブログ

ゲッセマネの「我」

エスと弟子たちは、冴えわたる満月の下、キドロン、黒い流れと呼ばれる小川を越えて、オリーブ山の中腹にあるゲッセマネの園に入ります。この道は、旧約時代、あのダビデ王が、息子であるアブシャロムのクーデターによって、都を追われ、夜逃げしたときに、泣きながら裸足で歩いた悲しみの道でした。ダビデの子であるキリストも、その夜、この道を歩まれたのです。 ヨハネが彼の視点で伝えるゲッセマネの出来事を見てみましょう。彼は、ゲッセマネにおけるイエスのあの有名な祈りを飛ばして、ただイエスの逮捕のシーンだけを伝えますが、ユダに口づけで裏切られたシーンさえも飛ばして、イエスがご自分の身に起こることを何もかもご存知で、自分を捕らえに来た者たちの前に進み出た姿を描きます。その時、イエスは言われました。「だれを捜しているのか。」イエスを捕らえに来た者たちが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と答えられました。イエスはここで、「ナザレのイエスとは私のことです」と答えている訳ではありません。「わたしである」とは、ギリシア語の「エゴー・エイミ」で、これは出エジプト記の3章で、モーセの前に現れた神が名乗った神の名から来ています。この神の名のゆえに、イエスを捕らえるために集まって来た人々は、みな息をのんであとずさりし、ばたばたと倒れてしまいました。ローマの六百人部隊が、イエスの口から発せられた僅か二語で、将棋倒しになる光景が想像できるでしょうか。 ある人は言います。「キリストが神の子なら、どうしてあの夜、逃げることができなかったのか。彼は自分を師と仰ぎ、救い主と信じていた人たちに裏切られ、見捨てられ捕らえられたのだ。」もしイエスが意に反して、無理矢理捕まったというのなら、そうだったかも知れません。しかし、イエスは「わたしである」と言って、捕らえに来た人たちをなぎ倒し、自ら十字架に向かって進んで行かれたのです。私たちを罪から救い、永遠の命を与えるために。 ヨハネ福音書10章11節以下、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」18節、「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」15章13節、「友のために、自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」そうです。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」 ゲッセマネとは、ヘブライ語で油絞りという意味で、そこにはオリーブ油の精製所があったと言われていますが、イエスの祈る姿は、まるで圧搾機によって粉砕され、油を絞られるオリーブの実のようでした。医者であったルカのカメラは、苦しみ悶えながら祈るイエスの姿を逃しません。「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」と。血の混じった赤い汗が滴り落ちたというのは誇張表現ではありません。精神的に強いショックやストレスを感じると、発汗細胞が破壊され、血の混じった汗をかくことは臨床的にも確認されていることです。
イスラエルに残る古代のオリーブの圧搾機は、石の臼のようなものですが、家畜を用いて、オリーブの実を砕き、油を取り出すというものです。ここで作られるオリーブ油には、いくつもの種類があったようです。最初に作られるもの、一番搾りということになりますが、それは祭司が神殿で用いました。次に、二番搾りの油は食用として用いられ、さらに三番搾りの油が生活の必要のために用いられたというのです。ランプを灯す油、薬用としても用いられました。もう搾れないでしょうか。いいえ、最後の残り滓は、石けんとして使われたというのです。
ゲッセマネ(油絞り)のキリスト。人間の罪と病を負い、悲しみと恥に押し潰され、御自分の思いさえも砕き、へりくだった祈りが多くの人に救いと癒しをもたらすことになったのです。キリストこそ、私たちの光、キリストこそ、私たちの癒しです。もし、私たちが人生の中で、砕かれるような経験をするようなことがあれば、ゲッセマネのキリストを思い出しましょう。ここに苦しみの解答が、すべての答えがあるからです。
イザヤ書53章5節、「彼(キリスト)が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」
ヤコブの手紙には、こう記されています。「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。」