土の器

宮本牧師のブログ

わかるか、ルフィーノ

「あの高い所に着くように急ごう」。高校1年の秋に、初めて京都の聖会に出席し、そこで聞いたメッセージです。副題があって、「十字架生活と御名の連祷」と付けられていました。アシジの聖フランシスコの晩年の苦悩を描いた「まことの智にいたるまで」という本の中から、一つのエピソードが、そのまま語られた印象的な集会でした。 フランシスコの精神(何も持たずに)を理解できない、後から加えられた人々が「改革が必要だ」と言い始める中、フランシスコは「福音は直される必要はない」と言い残し、自分の手で修復した懐かしいサンタ・マリア聖堂に向かっていました。その時に語られるのがこの一節です。「あの高い所へ着くように急ごう。あそこには、福音の真の住居がある。あの山では空気はもっと澄んでいるし、人々はもっと神に近くいる。」 しかし、そこにもまた、悲しい出来事が待ち受けていました。最初からの兄弟であったルフィーノの離反です。フランシスコは、十字架のもとで主の御声を聞いてやって来たすべてのことが音を立てて崩れていくように思え、失望落胆します。そのような状態で、その年の受難週、聖金曜日を迎えます。かつてから、聖金曜日にはあそこで十字架の黙想をしようと決めていた場所に行き、詩編の中から、主が十字架の上で語れた言葉を味わっていました。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」これは、すべてのものから見捨てられ、御父からさえも見捨てられ、天涯孤独の身となられたキリストの比類のない言葉です。彼は、十字架の言葉の中で、キリストと固く結ばれていくのを感じました。それはキリストの十字架にあやかる恵みでした。十字架という原点を抜きにして、キリストとの一致はあり得ません。私たちも祈りましょう。「私の救いの原因である十字架、私を清め神化する十字架、天国への道である十字架、私のすべてである十字架。私の神よ、私のすべてよ」と。 その時です。だれかが後ろから、フランシスコの袖を引っ張りました。ルフィーノです。ルフィーノが帰って来たのです。やがてフランシスコとルフィーノとの親しい語らいが始まります。ルフィーノが言います。「私は主のために自分を捨てたと思い込んでいました。でもそうではありませんでした。謙遜になろうと卑しい仕事も進んでしました。でもそれは義務からだったのです。そこに喜びはありませんでした。やがてこのような生き方が嫌になり、あなたのもとから離れて行ったのです。・・・私は自分の道が間違っていることに気づきました。福音とは違う精神に導かれていたのです。仕事が変わって世間を捨てたと信じ込んでいましたが、魂が変わっていませんでした。それがわかった瞬間、私の考えはひっくり返ったのです。私を照らした光が空しく消えてしまわないうちに、私はここに戻って来ました。その時から、光はますます輝いてきました。平安もまたそうでした。私は今、籠から解き放たれた小鳥のように自由です。」 祈りの時間を告げる鐘が鳴ったので、二人は立ち上がりましたが、フランシスコはルフィーノの腕をつかみ、「言っておかなければならないことがある」と言って、話し始めました。「主のお助けによって、お前は自分自身を乗り越えた。だが今後、10回も、20回も、100回も自分自身を乗り越えていかなくてはならないだろう。」ルフィーノは言います。「霊父様、私は恐れます。もうこんな戦いを、戦う勇気はありません。」フランシスコは答えます。「戦えばそこに到達できるというものではない。神を礼拝しながら、そこに到達するのだ。神がおられる。それで十分なのだ。わかるか、ルフィーノ。」 これが高校1年生の秋、私の心に刻まれた信仰生活の原点です。「私は物事に迷うと、そもそも自分は何でこれをやっているのかと、自分の原点に戻ろうとします。そうすると、今の自分がすべきことが見えてくるんです。」イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に、ご自分の原点に帰って行かれた。私たちも絶えず原点に戻り、いまの自分がなすべきことを確かめましょう。