土の器

宮本牧師のブログ

原点に戻る

今年も礼拝でヨハネ福音書の続きを学びます。10章の最後の部分からになりますが、ヨハネはキリストが十字架に上げられる約半年前の出来事を、7章から仮庵祭(スコットと呼ばれる秋の祭)を中心に注意深く描いてきました。9章では仮庵祭の後、シロアムの池でなされた盲人開眼の奇跡、10章ではそれに続いて、キリストが十字架を暗示しながら、良い羊飼いの譬えを語られ、10章の後半では神殿奉献記念祭(ハヌカと呼ばれる冬の祭り)においてイエスが「わたしと父とは一つである」と語られた所まで昨年学びました。 次回は11章に進みますが、ラザロの復活の奇跡が描かれます。それは、いよいよキリストが十字架に上げられる過越祭(ペサハと呼ばれる春の祭り)が近づいた頃の話になりますので、その間、3ヶ月ほどのことが、10章の最後の部分に記されていることになります。 ヨハネ福音書は21章からなりますが、ラザロの復活の後、11章の最後の所でイエスを殺す計画が具体化されますので、これから学ぶ福音書の残り半分は十字架の物語と言っても、決して言い過ぎではありません。それでは十字架の物語を描き始めるに当たって、福音記者ヨハネは私たちに何を伝えているのでしょう。 「イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。」福音書の1章に描かれた洗礼者ヨハネのことを覚えているでしょうか。洗礼者ヨハネは、自分の所に悔い改めのバプテスマを受けに来る群衆に向かって、「わたしの後から来る方は、わたしよりすぐれたお方で、わたしはその履物の紐を解く資格もない」と語り、ついにイエスが現れ、イエスの上に御霊が降るのを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と、イエスを証ししました。あれから3年、いま何が起こっているかと言うと、「多くの人々がイエスのもとに来て言った。『ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。』そこでは、多くの人々がイエスを信じた」と言うのです。これはヨハネ福音書の前半を統べくくる結論のように聞こえます。 イエスはこの後、ただ十字架にかかるために、再びヨルダンを渡りますが、今回ここを学びながら、私には、まるでイエスがご自分の原点に戻られたように思えました。ヨハネから洗礼を受け、御霊を注がれ、天からの声を聞き、「世の罪を除く神の小羊だ」と言われた、ご自分の原点に立ち戻られたのではないでしょうか。同時に、福音書を記すヨハネは、読者である私たちも、原点に帰ろうと呼びかけているように思えるのです。 昨年の暮れに、ある小冊子で連載されていたある牧師先生の文章の目が留まりました。「ふり返る祈り」と題が付けられているこんな話しです。「もう二十年近くも前ですが、かかりつけの医院で診察を受けていると、医者がポツポツと語り始めました。『私は物事に迷うと、そもそも自分は何でこれをやっているのかと、自分の原点に戻ろうとします。そうすると、今の自分がすべきことが見えてくるんです。』問うてもいないのに医者が突然そう語り始めたので、少し驚くとともに、私は何か天の声を聞いているような気持ちになりました。」 イエス・キリストも十字架に立ち向かう前に、自分の原点に戻り、自分がなすべきことを確かめられたのではないかと思うのです。今年の標語(原点)をもう一度確認しましょう。ヨハネによる福音書15章4節、「わたしにつながっていなさい。」1月もあっと言う間に20日が過ぎました。今年こそ、と思っていていたのに、つながっていない状態が続いているなら、原点に戻り、自分がなすべきことを見直しましょう。 ある人が三日坊主でも、100回くり返せば360回になると言っていました。 今週も大切なことを大切に。 今日はロゴス社の編集会議。京都に向かう新幹線の中ですが、車窓は見事な雪景色です。