土の器

宮本牧師のブログ

動かなかった理由

過越祭が近づいた頃、エルサレムを離れていたイエスのもとに、ベタニア村のマルタとマリアの姉妹から使いがやって来て言いました。「主よ、あなたが愛しておられる者が病気です。」マルタとマリアの兄弟ラザロが危篤との知らせです。

イエスがいたヨルダンの川向こうからベタニアまで、急ぎ足であれば一日の距離でしたので、マルタとマリアは、イエスがすぐにでも来てくれると思っていましたが、イエスはすぐに出発せず、さらに二日そこに留まっていたのです。

私たちが使っている聖書新改訳2017では、5節の後、6節に移るのに「しかし」という逆接の接続詞が使われていますが、本来は「だから」という、この箇所では少し意味づけを難しくする接続詞が使われています。実は、新改訳聖書でも前の版では、「そのようわけで」と理由を示す接続詞に訳されていました。詳訳聖書も、「それゆえ」と訳し、現代語訳聖書は「イエスは・・・ラザロを愛しておられたので・・・なお、二日間そこにいて、動こうとはされなかった」と、イエスがラザロを愛していたことが、出発を遅らせた理由であったと説明しています。ここが今日の大切なポイントです。

愛しているのなら、すぐに行けばという話ですが、この疑問を解く鍵が、物語全体の鍵でもある4節の言葉です。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」

私たちにとって大切なことは、神が愛するがゆえに動かれない時があることを知り、神の沈黙の意味を知ることです。沈黙の向こう側で、神はあなたの祈りをじっと聞いておられるのです。あなたのために祈っているのです。そして、時が来るのを待っておられるのです。そうです。神は言われます。「時が来れば、速やかにそれをする」と。