土の器

宮本牧師のブログ

愛しておられたので

過越祭が近づいた頃、エルサレムを離れていたイエスのもとに、ベタニア村のマルタとマリアの姉妹から使いがやって来て言いました。「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです。」ラザロが危篤との知らせです。その時イエスがいた場所からベタニアまで、急ぎ足で一日ほどの距離でした。マルタとマリアは、イエスがすぐにでも来てくれると期待していましたが、イエスはすぐには出発せず、さらに二日そこに留まっていました。 私たちが使っている新共同訳聖書では、5節の後、6節に移るのに接続詞がありませんが、本来は「それだから」という、少し意味づけを難しくする接続詞がついています。新改訳聖書では、「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。そのようわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞いたときも、そのおられた所になお二日とどまられた」と、接続詞を訳しています。詳訳聖書も、「それゆえ」という接続詞を入れ、現代語訳聖書も「イエスは・・・ラザロを特別に愛しておられたので・・・なお、二日間そこにいて、動こうとはされなかった」と、イエスが彼らを(特にラザロを)愛していたことが、出発を遅らせた理由であったことを説明しています。愛しているのなら、すぐに行くのではと考えてしまいますが、この疑問を解くのが、物語全体の鍵でもある4節の言葉です。実存主義の思想家キルケゴールは、この4節の言葉から、「死に至る病」という著書を著し、絶望について論じましたが、イエスは「この病は死で終わるものではない。神の栄光のため、また神の子が栄光を受けるためである」と語り、その時をじっと待たれたのです。 7節の「それから」と言うのは、二日の後、三日目ということになりますが、イエスは弟子たちに「もう一度、ユダヤに行こう」と言います。弟子たちは、慌てた様子で、あるいはあきれた様子で、それを阻止しようとしますが、イエスは「わたしの友ラザロが眠っている。わたしは彼を起こしに行く」と答えます。弟子たちは、「眠っているだけなら助かるのでは」と言いましたが、イエスは「ラザロは死んだのだ」とラザロの死をはっきりと告げ、さらに言葉を続けられました。「わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところに行こう」と。 ここにも、愛する友ラザロの危篤を知らされて、なお二日居た場所に留まった理由が語られています。それは弟子たちが信じるようになるためだと・・・。4節には「神の子が栄光を受けるため」とありましたが、イエスがこの出来事を通して、お受けになる栄光とは、そして弟子たちがそれを信じるようになるとはどういうことでしょうか。ヨハネ福音書は、くり返しイエスの栄光について述べていますが、それはイエスが全人類の罪の贖いとして十字架の上で死に、永遠の命が人々に与えられることを指しています。 「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とのイエスの言葉は有名ですが、これはイエスの死と復活によって、人々が永遠の命を受けることを語っています。ですから、ヨハネ福音書は、ラザロの死と復活を、イエスの死と復活と重ね合わせるように、私たちがそれを信じるように導くのです。