土の器

宮本牧師のブログ

苦しみの意味と目的

人間は、だれでも裸で生まれて来るわけですが、必ずしも平等にスタートするわけではありません。生まれた時から障害を持っていたと言う人もいます。ある人は病気で、ある人は事故に巻き込まれてと言うことかもしれません。現代では、心を病み、精神を患うというケースも多く見受けられます。

どうしてその人の人生にそう言うことが起こったのか。だれも納得のできる答えを持たないので、だれかが悪いことをした報い、罰を受けているという考えが支配的になります。その結果、自分を責め、親を恨み、だれかのせいにするのです。

しかし、イエスの答えは、それとはちがいました。今までだれも言ったことのない、いや、言うことのできなかった答えを、イエスを語られたのです。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」

病気の問屋と言われた三浦綾子さんは、「これを読んだ時・・・まさに暗闇の中に光が差しこんできた思いだった」と言ったのです。弟子たちの問いは、「だれが」と言うことであって、人生の苦しみ、不幸の原因と責任でした。ところがイエスは、苦しみの意味と目的について語られたのです。

あなたにも「どうしてこうなったのだろう」とその原因がわからずに苦悩していることがあるでしょうか。ある時は自分を責めたり、卑下したり、ある時は他人を責めたり、恨んだりしてはいないでしょうか。クリスチャンであっても、納得のいかない問題に、悶々とさせられることが現実にあります。

 「どうして」「なぜ」「だれが」と問い詰める時、その人の心は過去に向かい、後ろ向き、苦しみの中に留まり続けています。しかし、神が私たちの抱いているのが災いの計画ではなく、将来と希望を与えるものであることがわかる時、その人は「何のために」と問いかけ、その目的と意味を求めるようになっていくのです。ですから、苦難の問題とは、原因ではなく、その意味と目的を知ることなのです。イエスは言われます。「それは神のわざが、あなたにも現れるためである。」「もし信じるなら、神の栄光を見る。」