土の器

宮本牧師のブログ

原因と責任から意味と目的へ

エスが通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられ、見つめられたことから、9章の出来事が始まります。弟子たちは、イエスの視線の先にいる男を見て、同情を寄せながら、日頃から心に引っかかっていた人生の疑問について尋ねました。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」 人間は、だれでも裸で生まれて来ると言われますが、必ずしも平等にスタートするわけではありません。オリンピックに続き、パラリンピックが行われましたが、中には生まれた時から障害を持っていたと言う人もいます。ある人は病気で、ある人は事故に巻き込まれ、夢を奪われ、身体の一部を失った人たちでした。どうしてその人の人生にそう言うことが起こったのか。だれも納得のできる答えを持たないので、三浦さんが書いていたように、因果応報、悪いことをした報い、罰を受けているという考えが支配的になります。自分を責め、親を恨み、だれかのせいにするのです。当時のユダヤ人もそういう考えを持っていました。ファリサイ派の人々は、目が見えるようになった男を会堂から追放する場面でこう言います。「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と。きっと彼は、ずっとそう言われ続けていたにちがいありません。そう言われる度に、彼は暗闇の深淵に突き落とされるような思いになったことでしょう。 しかし、イエスの答えは、それとはちがいました。今までだれも言ったことのない、いや、言うことのできなかった答えを、イエスは語られたのです。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」 病気のデパートと言われた三浦綾子さんは、「これを読んだ時・・・まさに暗闇の中に光が差しこんできた思いだった」と言ったのです。弟子たちの問いは、「だれが」と言うことであって、人生の苦しみの、不幸の原因と責任でした。ところがイエスは、苦しみの意味と目的について語られたのです。 人生の苦しみの原因と責任に目を向ける時、人の心は過去に向かい、いつまでも苦しみの中に留まり続けています。しかし、神が私たちの抱いているのが災いの計画ではなく、将来と希望を与えるものであることがわかる時、人は「何のために」と問いかけ、その目的と意味を求めるようになっていくのです。ですから、苦難の問題とは、原因ではなく、その意味と目的を知ることなのです。イエスは言われます。「それは神の業が、あなたにも現れるためである」と。