土の器

宮本牧師のブログ

電光石火

エスが電光石火の一石を投じます。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 ここには、人間には考え付くことのできない神の知恵があります。この一石によって、立場が逆転しました。すなわち、AかBかという二者択一ではなく、第三の道が示され、訴える者が訴えられる立場に立たせられる結果となったのです。これを聞くと、人々は年寄りから始めて、一人一人その場を去って行きました。そして、ついに「イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」のです。おわかりでしょうか。ただ一人、彼女に石を投げることのできる方がそこに残っていたのを。それはイエスです。 この状況を考えると、彼女は真っ先にその場から逃げ去りたかったはずです。しかし、彼女はそこに留まりました。ここに彼女の信仰を見ることができます。逃避という一時的な救いではなく、本当の救いを願い求めた彼女は、イエスのもとに踏み止まることによって、その救いを得るのです。光のもとに来て、光の中にとどまる人は幸いです。 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と。これは、世の光であるキリストの前に留まり、ただ一人、彼女に石を投げることができたイエスを「主よ」と呼んだ彼女の信仰に対する答えでした。しかし、同時に、それはイエス・キリストの十字架の死を宣言する言葉でもありました。事実、姦通の女が石で打たれようとしたヨハネ8章は、人々がイエスに石を投げようとする場面で終わるのです。 聖書が私たちに教える最も大切なこと、それは罪、神、救いです。三浦綾子さん、光世さん夫妻が語っているように、「罪がわかった時に、神が見えてくる。」このあと、この女は喜びの一生を生きた。 ヨハネ3章16節、17節、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」アーメン。 暑い日が続きますが、次の日曜日は8月のオープン礼拝です。ぜひお出かけください。