土の器

宮本牧師のブログ

羊の囲いのたとえ

ヨハネ福音書10章の前半は、イエスが語る「良い羊飼い」のたとえを受けて、群衆が「イエスは悪霊に取りつかれて、気が変になっている。」「いや、悪霊に盲人の目が開けられようか」と言い合うところで終わります。ということは、9章からの物語が続いていると読むことができます。つまり、一連のたとえはシロアムの池で目を開かれた元盲人を会堂から追放した宗教指導者たちと、まるで失われた一匹の羊の名を呼ぶ良き羊飼いのように、彼を捜し出したイエスとが対比されているということです。 新共同訳聖書は「羊の囲いのたとえ」と小見出しを付けていますが、ここでは羊飼いの囲いの話題から、本当の羊飼いと盗人、強盗とが対比されています。パレスチナでは、一つの村の羊は共同の囲いに入れられている場合が多かったようです。その共同の囲いを門番が守り、門番は顔見知りの羊飼いだけに門を開きました。羊飼いは門から囲いに入り、自分の羊の名を呼んで、多くの羊の中から自分の羊だけを連れ出します。羊も自分の羊飼いの声を聞き分け、その人にだけついて行きました。羊飼いは朝ごとに門から囲いに入って、自分の羊たちを牧草地に連れて行きますが、盗人や強盗は、夜ひそかにやって来て、塀を乗り越えて囲いに侵入し、羊を奪って行きます。このように、1節から5節までは、現実の羊飼いの仕事ぶりを比喩として用いて、イエスと対立するユダヤの指導者たちを対比させているのです。 ちなみに、神の民の指導者を羊飼いにたとえる語り方は、イスラエル古来の伝統です。また、イエスもこの比喩をよく用いられました。「羊飼いのない羊の群れ」という表現や、失われた一匹の羊のたとえは有名です。 真の羊飼いの条件は、まず門を通って囲いに入ることです。更に肝心なことは、「羊はその声を聞き分ける」ということです。しかも、「羊飼いは自分の羊の名を呼んで」とありますから、羊飼いは、その一匹一匹に名前を付けて、名を呼んでいたということです。それは愛の表れでした。自分の羊たちの名を呼んで囲いから連れ出した羊飼いは、先頭に立って群れを導き、命を養う牧草や水のあるところに連れて行きます。羊たちは羊飼いについて行きます。この光景は、「主は私の羊飼い」と歌われるあの詩編23編を想い起こさせるものです。 今週も大切なことを大切に。