土の器

宮本牧師のブログ

主の庭に入れ

シロアムの池の奇跡の後、元盲人が会堂から追放されたことを聞き、彼を見つけ語りかけたイエスが、そこにいたファリサイ派の人々に羊飼いの譬えを話し始められました。しかし彼らは、「その話が何のことか分からなかった」と書かれています。イエスの譬え話には、聞こうとする者には神の国の奥義を開く効果がありましたが、聞こうとしない者には、いよいよわかりづらくし、不信の中に陥れるという効果がありました。 そこでイエスの話は続きます。初めの部分もそうでしたが、「はっきり言っておく」という、ヨハネ福音書ではお馴染みのフレーズで始まります。ギリシア語の原文では「アーメン、アーメン」となっているところで、大切なことを語るときに用いられるフレーズです。 そこでまず語られたことは「わたしは門である」ということでした。聖書の時代、一つの村の羊は共同の囲いに入れられることが多かったようですが、この共同の囲いを門番が守ります。きっと羊飼いたちが、入れ替わりで囲いの番をしていたのでしょう。羊の囲いを守る門番は、狭い門に座り、「わたしは門です」と言って、命がけで羊を守ったと言われています。そのような背景があって、イエスはここで自らを「わたしは門である」と名乗っておられるのです。 聖書の中で「門」と言えば、すぐに思い出すのが、山上の垂訓の中で語られた「狭い門から入りなさい」という言葉です。また聖書の中で「門」と言えば、創世記28章のヤコブの物語も忘れられません。石を枕に眠った夜、ヤコブは天と地をつなぐ梯子を見ました。彼は思わず、「まことに主がこの場所におられるのに、私はそれを知らなかった。・・・ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、これは天の門だ」と漏らします。ヨハネは、イエスがこの故事を引用し、イエス自身が天と地をつなぐ梯子であり、天の門であると語られたことも記しています。 また、詩編の中にも「門」について歌っているものがあります。詩編の100編はその代表的なものです。詩編を声に出して味わってみましょう。 100:1 賛歌。感謝のために。全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。 100:2 喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。 100:3 知れ、主こそ神であると。主は私たちを造られた。私たちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ。 100:4 感謝の歌をうたって主の門に進み、賛美の歌をうたって主の庭に入れ。 100:5 主は恵み深く、慈しみはとこしえに。 私たちは毎週、教会の玄関をくぐり、礼拝堂の入口をくぐって、ここに入って来ますが、この詩編歓喜をもって、毎週、教会の玄関を、礼拝堂の入口をくぐっているでしょうか。 今週も大切なことを大切に。