土の器

宮本牧師のブログ

受肉

アメリカのクリスチャン・ジャーナリスト、フィリップ・ヤンシーの本にはうなずかされることが多い。 彼が「受肉」ということについて、次のような説明している。 私は塩水を入れた水槽を管理していて、受肉について学んだことがある。水槽の管理は楽な仕事ではない。化学実験用具を使って、硝酸塩の度合いやアンモニァの含有量をチェックしなければならなかった。ビタミンや抗生物質、サルファ剤や十分な酸素をポンプで送り込んで魚が育つようにした。水はグラスファィバーと炭で濾過してから紫外線にさらした。私が費やした労力全部を考えると、魚たちは少なくとも感謝してくれたと読者諸氏は思われるだろう。 だがそんなことはなかった。水槽の上に私の影がかかるたびに、彼らはいちばん近くにある貝殻の中に隠れようと、もぐっていった。彼らが私に見せた唯一の「感情」は恐れだった。私がスケジュール通り日に三回、水槽の蓋を開けて食べ物を落としてやる時も、魚たちはその都度私が彼らに苦痛を与えようとしているしるしだと確信しているように反応した。私は彼らに、自分が本当は心配しているのだと説得することができなかった。魚にとって私は神だった。私はあまりにも大きく、私の行動を理解することはとてもできなかった。魚たちをあわれむ気持ちから出た私の行為を、彼らは残酷なものと見た。魚の病を癒そうとした私の試みも破壊的なものと見なされた。彼らの認識を変えるには受肉という形態をとる必要があると、私は気づくようになった。私が魚になり、魚にわかる言葉で「話しかけ」なければならないのだ。 人間が魚になることなど、神が赤ん坊になることと比べれば何でもない。しかしそれでも福音書によると、それこそがべッレへムで起きたことだったのである。物質を創られた神が物質の中に形をなした。ちょうど芸術家が一枚の絵の中の一点になったり、脚本家が自分の書いた劇の中の人物になったりするようなものである。神は現実の人格だけを使って、現実の歴史のぺージに話を書いた。「言葉」は肉になったのである。 (『だれも書かなかったイエス山下章子訳)