土の器

宮本牧師のブログ

偉大な生涯の真実

聖地はナザレにある受胎告知教会の地下に、天使ガブリエルがおとめマリアに現れたと言われる場所があります。そこにある記念の祭壇には、ラテン語で「ここにてみことばは肉体となりたまえり」と刻まれています。ベツレヘムの聖誕教会ではなく、受胎告知のあったここがキリストが受肉された場所ということです。 教会では毎週の礼拝で使徒信条を告白し、「主は聖霊によって、おとめマリアより生まれ」と、ロゴスの受肉に関しても信仰告白をしていますが、これはキリスト教信仰の重要な教理であり、これを否定すれば、私たちの信仰は足下から崩れてしまうと言っても過言ではありません。神の時が満ちるにおよんで、一人のおとめの「なれかし」によって、ついに見えない神は見えるものとなられたのです。 くり返しますが、ヨハネによる福音書には、クリスマスの物語がありません。ベツレヘムも出てきませんし、マリアもヨセフも、羊飼いも博士も登場しません。しかし、ここに述べられているロゴスの受肉とその栄光に関するヨハネの記事は、クリスマスの神秘だけではなく、イエス・キリストの偉大な生涯の真実を見事に言い表しています。 ヨハネはここで、永遠の初めから存在し、万物を創造された神の言(ロゴス)が肉となり、私たちの間に宿った(天幕は張り住まわれた)と言っています。神が人となられる、それは私たちの想像をはるかに超えています。昔も今も、それは信じがたいことです。しかし、ヨハネは「初めに言があった」と語り始めたように、ここでも、何のためらいもなく、真っ向から堂々と語るのです。「言は肉となって、私たちの間に宿られた」と。それはイエスの降誕から始まって、ナザレで過ごされた30年、メシアとしての3年半の公生涯、そして十字架の死に至るまで、イエスの生涯のすべてを指しています。つまりこういうことです。人間の目に見えない神が見えるものとなり、人間の言葉で人間に語るために、神は人となった。決して触れることのできなかった神が、人間がこの手で触れることのできるものとなるために、人となった。不死のものである神が、私たちの罪の贖いの供え物として、十字架にかかって死に、私たちに永遠の命を与えるために、人となった。言は肉となり、私たちの間に住まわれたのです。 今日は地域の先生方との集まりがもたれました。今週も大切なことを大切に。