土の器

宮本牧師のブログ

平安と驚きの神

イースター礼拝
メッセージ「平安と驚きの神」
聖書 ヨハネ福音書20章19〜20節(19章19〜20節)

キリスト教のエッセンスは十字架と復活です。もう少し平たく言えば、キリストの十字架によって罪が赦されたという平安、キリストの復活によって死が打ち破られたという驚き。平安と驚きです。キリストの復活を記念して始まった毎日曜朝の礼拝が、平安と驚きに満ちた礼拝となりますように。
今週も礼拝の恵みに感謝。

 

本来あるべき姿

エスエルサレムに入城された後、神殿の境内で見た光景は、本来あるべき神殿の輝きがまったく失われたものでした。なんと悲しいことでしょう。イエスは失われた神殿の輝きを取り戻すために、全力で御自分の住まいである神殿を清められたのです。
本来あるべき神殿の姿(教会の姿)について、御言葉から3つのことを発見できます。
第一に、神殿は祈りの家です。イザヤ書56章にこう記されています。「わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。」神の住まいは祈りの家です。いつも祈りに満ちた場所です。
第二に、神殿は癒しの場所です。イエスが両替人や商人たちを追放した後、目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに集まってきました。イエスは彼らを癒されたのです。神の住まいでは常に奇跡が起こります。
第三に、神殿は賛美に満ちた場所です。イエスのなさった不思議な業を見、境内では子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と声高らかに歌っていました。宗教家たちはそれを非難しましたが、イエスはそれを喜ばれました。それこそ神の住まいにふさわしい光景であったからです。
この宮清めの出来事は、私たちに聖書の重大な真理を思い起こさせます。「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」
「イエスは宮に入られた。」今や、神殿の中にイエスだけが輝いて見えます。

イエスは宮にはいられた

棕櫚の日の礼拝
メッセージ「イエスは宮にはいられた」
聖書 マタイの福音書21章12〜17節

今日は堺教会での最初の礼拝でした。今週も礼拝の恵みに感謝します。

中国は梁の時代の『元帝纂要』に「一年の計は春に在り」と書かれているとか。四季の初めの春は、いろいろなものが「始まる」季節だが、「始める」季節ととらえることもできる。「一年の計」の中で、何か未経験なことへの挑戦を考えてみるのに、ふさわしい時期ではないだろうか。何であれ新たなことは、興味や視野を広げてくれるはずだが、特にある程度以上の年齢になると、不慣れなことに取り組むのはおっくうに感じる。その気はあっても先を考える。ぶざまな初心者ぶりを笑われたくはない。そして気後れする。そこで思い出すのは、レンブラントの言葉だ。かのオランダの大画家は「絵はどう描けばよいか」と問われてこう言ったそうだ。「まず、絵筆をとりなさい」と。何か新しいことを始めるに当たって一番難しいのは「始めること」それ自体である。とにかく始めてしまえば、もう半分できたようなものだ。さあ、始めてみよう。

完了した

礼拝メッセージ「完了した」
聖書 ヨハネ福音書19章28〜30節ほか
ヨハネ福音書シリーズ(115)

今週も礼拝の恵みに感謝します。
今日で深草ヨハネ教会で礼拝メッセージを語るのは最後になりました。大勢の方が集まってくださり、中にはずっと祈り続けていた方も来られていて感謝でした。
4年前、深草での最初の礼拝を終えた直後、緊急事態宣言が出され社会が止まりました。未曾有のパンデミックを通過した4年間、教会も完全に閉鎖した状態が2カ月ほどあり、礼拝の配信が開始されました。その後も、人数制限や分散礼拝という形を経て、ようやく3年目の後半ごろから、みんなで集まっての礼拝がもてるようになりましたが、高齢者も多いことから未だにマスクを着用しての集まりを続けています。これから教会活動もリカバリーしながら、コロナ前に戻っていくのだと思います。もちろんすべてがコロナ禍前に戻るわけでもなく、コロナ禍で学んだことを生かしたニューノーマルを、教会の皆さんと共有しながら進めていくことになると思います。
深草ヨハネ教会も、新しい先生方をお迎えして新たな出発です。祝福を祈ります。

私たち夫婦は大阪の堺教会に転任になりますので、こちらのブログの内容も、これから堺教会が舞台になります。よろしければ引き続き宮本牧師のブログ「土の器」をのぞいてください。

いつも全力を注いで

深草での4年間の働きを終え、新任地に出発しようとしています。コロナ禍で集会を閉じたり、礼拝を分散で行ったり、普通ではない4年間でしたが、主の憐れみと、いつも祈ってくださるみなさんに支えていただきました。感謝の気持ちでいっぱいです。
堺でも、初心を忘れず、日々心熱くして、主にお仕えしたいと献身の思いを新にしているところです。
こんな話を読みました。クリスチャンの多くは、自動速度調整式に神に従っています。最近は、指定速度を自動的に維持する機能のある自動車があります。望む速度まで加速し、自動速度調整ボタンを押すと、その速度が維持されるのです。このように、多くのクリスチャンは自分の行動がある水準に至るまでは従順のアクセルを踏みますが、その速度は他のクリスチャンの行動水準によって決定されます。自分の霊的水準が遅れを取るのは望みませんが、先立とうという努力はしません。従順が水準に達すると、心で自動速度調整ボタンを押して緊張を解きます。そうすれば、みことばというメーターをのぞき込まなくても、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くしてあなたの神である主に従おう」と努力して、疲れ果ててしまうことがありません。
このこととは対照的に、サーキットのレーサーは、もっぱら運転だけに焦点を合わせます。つねに足をアクセルの上に置き、車の性能の許す限り最高速度で走ろうとします。目はいつもコースを見つめ、コーナーを回るときはすべての技術を総動員します。信仰においても、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くしてあなたの神である主を愛する」とは、このように神を愛することだと言えます。私たちには、心と思いと知性を尽くして主に従おうとする熱い思いが必要です。持てるすべてを総動員して、神に従わなければなりません。
献身をめざした頃から、ずっと大切にしてきた御言葉を記しておきます。
「いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはない。」(Ⅱコリント15:58口語)
「熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。」(ローマ12:11−12口語)

 

あなたは流れ出る川

今週の礼拝は、嵯峨野教会でもたれた春の聖会の中継をご覧いただきました。
聖会のテーマは「あなたは流れ出る川」。

第1聖会 「血と水が流れ出た}
第2聖会 「生ける水の川としてください」

2回の恵まれた聖会に続き、任命式が行われました。神学院を巣立ち宣教の最前線に立つ卒業生とともに、初々しい思いで、任命に「アーメン」と応えました。
聖会の恵みを感謝します。

 

あなたの渇きは終わった

「わたしは渇く」これはイエスが十字架の上で語られた7つの言葉の5つ目です。
エスは、人類が自らの罪の罰として当然受けなければならなかった裁きを、代わりに十字架の上でお受けになりました。イエスが十字架上で経験された渇きと苦しみは、肉体の渇きや苦しみ以上に、人間の罪がもたらす悲惨な現実としての神との断絶でした。それはぶどうの木の譬えにあるように、枝が幹から切り離され、いのちの源を断たれて枯れ木となるという、霊的な死、霊的な渇きです。
続く十字架上の第6の言葉は「完了した」ですが、その意味は、この誰もが経験しなければならない「渇き」が終わったということです。イエスが十字架の上で地獄の渇きを味わってくださったので、その渇きはすでに終わったのです。イエスは自ら渇く者となりながら、私たちの受けるべき渇きを終わらせてくださったのです。「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」
興味深いことですが、ヨハネが4章で描いたイエスサマリアの婦人の物語でも、イエスは渇いておられました。「時はおよそ第六の時であった」と記されています。正午ごろのことです。ここにヨハネのこだわりがあります。イエスが十字架の上で「渇く」と言われる少し前に、ヨハネは「その日は過越の備え日で、時はおよそ第六の時であった」と十字架の時間を設定しています。この部分は他の福音書との違いが指摘される箇所ですが、ヨハネにとっては4章と時間をそろえることに意味がありました。つまり、ヨハネにとって、サマリアの婦人の物語は、すでに十字架を指していたのです。私たちの渇きをいやす、救いの源が十字架であることを、彼は語っているのです。
「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません」と言われた方が、十字架の上で「渇く」と言われたのです。十字架の主イエスは渇いておられます。渇きつつ、あなたを呼んでいます。「かわいている者はここに来るがよい。(わたしが渇いたから、あなたの渇きは終わった。)いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい。」「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出る」と。