土の器

宮本牧師のブログ

あなたの渇きは終わった

「わたしは渇く」これはイエスが十字架の上で語られた7つの言葉の5つ目です。
エスは、人類が自らの罪の罰として当然受けなければならなかった裁きを、代わりに十字架の上でお受けになりました。イエスが十字架上で経験された渇きと苦しみは、肉体の渇きや苦しみ以上に、人間の罪がもたらす悲惨な現実としての神との断絶でした。それはぶどうの木の譬えにあるように、枝が幹から切り離され、いのちの源を断たれて枯れ木となるという、霊的な死、霊的な渇きです。
続く十字架上の第6の言葉は「完了した」ですが、その意味は、この誰もが経験しなければならない「渇き」が終わったということです。イエスが十字架の上で地獄の渇きを味わってくださったので、その渇きはすでに終わったのです。イエスは自ら渇く者となりながら、私たちの受けるべき渇きを終わらせてくださったのです。「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」
興味深いことですが、ヨハネが4章で描いたイエスサマリアの婦人の物語でも、イエスは渇いておられました。「時はおよそ第六の時であった」と記されています。正午ごろのことです。ここにヨハネのこだわりがあります。イエスが十字架の上で「渇く」と言われる少し前に、ヨハネは「その日は過越の備え日で、時はおよそ第六の時であった」と十字架の時間を設定しています。この部分は他の福音書との違いが指摘される箇所ですが、ヨハネにとっては4章と時間をそろえることに意味がありました。つまり、ヨハネにとって、サマリアの婦人の物語は、すでに十字架を指していたのです。私たちの渇きをいやす、救いの源が十字架であることを、彼は語っているのです。
「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません」と言われた方が、十字架の上で「渇く」と言われたのです。十字架の主イエスは渇いておられます。渇きつつ、あなたを呼んでいます。「かわいている者はここに来るがよい。(わたしが渇いたから、あなたの渇きは終わった。)いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい。」「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出る」と。