今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
イザヤ書21章11〜12節
聖会前、先週と今週の祈祷会で『言泉集』第9巻「聖霊の刷新」から、1984年の新年に語られた2つのメッセージを学んでいます。今週は「神の時計」を学びました。キリストの再臨を待望する熱い思いを与えていただき恵まれました。
ただ一度のまなざし
「あなたは私の心をうばった。私の妹、花嫁よ、あなたは私の心を奪った。ただ一度のまなざしと 首飾りのただ一つの宝石で。私の妹、花嫁よ。あなたの愛は、ぶどう酒にまさって麗しく、あなたの香油の香は、すべての香料にまさっている。」(雅歌4:9-10)
雅歌は、単なる男女の歌を歌ったものではありません、そこには、神とイスラエルの愛が謳われており、また、キリストの教会も、雅歌をキリストと花嫁である教会の愛を表すものとして受け止めてきました。
雅歌を読んでいると、ヒロインである女性は、自分は色が黒い、平凡なものだと自分を卑下し、家に閉じこもり、岩の裂け目に身を隠してしまいます。しかし、花婿は、「御覧なさい、冬は過ぎ去った。雨もやみました。出て来なさい。あなたの顔を見せてください。声を聞かせて下さい」と呼びかけるのです。
何が、それほどまでに、花婿であるキリストの心を魅了し、夢中にさせたのでしょうか。「あなたは、ただ一度のまなざしで、首飾りの宝石の一つで、私の心を奪った。」
それは、花嫁の花婿を見つめるまなざしです。私たちの働きや能力や実績ではありません。それは私たちに示された圧倒的なキリストへの愛に答えて、キリストを見つめる愛のまなざしです。また、「首飾りの一つの宝石」とは、キリストへの従順を表します。
今日、私たちの信仰のまなざしを、心の目の焦点を、花婿キリストにあわせて、「イエス様、あなたを愛します。あなただけで十分です。イエス様来てください」と告白するなら、それだけでキリストの心を奪うことができるのです。その時、キリストは「あなたの愛は、何ものにもまさって麗しい」と言って、惜しみなくご自身の愛である聖霊を注いでくださいます。
見よ、この人だ
讃美歌「まぶねのなかに」は、日本の賛美歌の発展に貢献された由木康牧師(「きよしこの夜」や「血汐したたる」を訳された先生)が作詞されたメイドインジャパンの讃美歌で、ヨハネ福音書19章5節の御言葉をモチーフに、「この人を見よ」という歌詞がくり返し歌われます。この言葉は、ラテン語で「エッケ・ホモ」と言い、いばらの冠をかぶるイエスを描いた聖画の題名として用いられています。
イエスを取り調べたローマ総督ピラトは、イエスが無実であり、その訴えも政治的な案件ではないことから、イエスを釈放しようと努力しました。最初の試みは、過越祭に行われていた恩赦を利用することでしたが、イエスに敵対する宗教指導者たちによって扇動された民衆は、イエスではなくバラバを解放するようにピラトに要求しました。 第2の試みは、イエスを鞭打ちにし、民衆の怒りが収まるのを待つということでした。兵士たちは、イエスの頭にいばらで編んだ冠をかぶらせ、紫色の着物を着せました。マタイの福音書では、イエスに葦の棒を持たせたともあり、兵士たちが、鞭打たれ、血だらけになった憐れな裸の王をイエスに演じさせたことがわかります。 この後、ピラトは、早朝から総督官邸に集まっていたユダヤ人たちの前にイエスを立たせて言いました。「見よ、この人だ」と。この時、ピラトが言いたかったことは「彼はもはや、恐れるに足りない。憐れな裸の王様に過ぎない。解放してやろう」ということでした。しかし、この言葉をここに記したヨハネにとっては、もっと含蓄のある言葉だったのです。ヨハネ福音書には、語った本人の自覚や意識とは裏腹に、語られたセリフが真理を示すという手法が多く用いられています。ヨハネは「見よ、この人だ」との特に意味を持たない言葉を用いて、私たちをイエス・キリストに向かわせようとするのです。 ヨハネが福音書の冒頭に記した言葉が思い出されます。バプテスマのヨハネがイエスを指さして語ったあの言葉です。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」
ピラトの法廷に立ち、「この人を見よ」と言われているこの方こそ、世の罪を取り除く神の子羊だったのです。
主の栄光を鏡に映す
今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
コリント人への手紙 第二 3章17〜18節
今週は、昨年から学んできた『聖なる道』シリーズの最終回、第31日「主の栄光を鏡に映す」から学びました。