土の器

宮本牧師のブログ

水の福音書

盲人は、イエスの言葉に従いました。神殿の辺りからシロアムまで、地理的には、なだらかな下り坂になっています。この道を歩きながら、彼は多くの人々からからかわれたり、罵倒されたりしたにちがいありません。顔に泥を塗られているのですから・・・。もうこの辺で止めておこうか。シロアムの池まで行かなくても、道端の水がめで顔を洗おうか。そのような気持ちと闘いながら歩き続けるには、神の前での謙遜が必要でした。彼は地理的に低いところへ下って行っただけではなく、霊的にもへりくだる経験をしたのです。主の言葉はあまりにもシンプルで馬鹿げているでしょうか。しかし、それがいつも神の方法なのです。 私たちも私たちのシロアム、遣わされた方のもとに、遣わされて行くということです。ヨハネ福音書は、別名「水の福音書」とも呼ばれます。生けるいのちの水の働きについて多く教えているからです。ヨハネ3章、イエスはニコデモに言われました。「人は水と霊とによって、新しく生まれなければ、神の国に入ることはできない。」ヨハネ4章、イエスサマリアの女に言われました。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、・・・私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」ヨハネ5章にはベトザタの池の奇跡が記され、7章では仮庵祭の終わりの日に、イエスが立ち上がってこう語られました。「渇いている人はだれでも、私のところに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と。そして、9章にはシロアムの池の奇跡が記されているのです。 京都の聖会で、「奔流岩をかむ」という言葉を教わりました。これは勢いの非常に激しい水が岩を噛み、逆巻き流れる有様を表した非常に強い言葉です。奔流する川、それはダイナミックな神の救いの御業の象徴であり、すべてのものを変容させてしまう神の力の力の現れです。ギホンの泉から、シロアムの池に流れる水は、人の目には緩やかに映りましたが、その実、エルサレムの住民を生かし、今ここで生まれつきの盲人の目を開くという途轍もない力と勢いを持っていたのです。今、この男の前に黒く重い扉は開かれ、一つの光が差しこんできました。「そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。」おお見える!見える!神が造られたこの美しい世界が。おお見える!見える!人生の真の目的と目標が。おお見える!見える!神の愛が。 来年の聖イエス会オリジナルカレンダーの製作が進んでいます。なんと名古屋教会の写真も使っていただくことになり、ビックリです。ぜひお買い求めください。