土の器

宮本牧師のブログ

シロアムの池に行って

エスは神の業が現されるためにと言われた後、こう続けられました。「わたしたちは(イエスと私は、イエスとあなたは)、わたしをお遣わしになった方(神)の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間は、世の光である」と。 イエスが語られた「わたしを遣わされた方の業」とは、この場合、何かの行為ではなく、ずばりイエスに対する信仰です。そこでイエスは、地面に唾をし、唾で粘土をこねてその人の目に塗られました。これが第一ヒントです。私はだれでしょう。先週の宿題でしたが、みなさんは、このイエスの行為が何を意味し、イエスが誰であるかがわかったでしょうか。ちょっと焦らすようですが、この第一ヒントの意味が解き明かされるのは、もう少し後になります。なぜなら、この盲人にはその意味が理解できなかったからです。彼は肉体の目が見えないと言うだけではなく、霊的にも盲人であったのです。そこでイエスは次のヒントとして、「シロアムの池に行って洗いなさい」と盲人に命じられます。ここでは「シロアム」という言葉が重要な意味を持ちますが、盲人はやはりその意味を理解できません。しかし、不思議なことに彼はイエスの言葉に従い、シロアムに向かいます。 シロアムの池とは、エルサレムの町の南端にある貯水池のことです。ダビデがこの町を建てた頃、町の水源はギホンの泉だけでしたが、敵に攻められ、水源を押さえられたら、それで終わりです。そこでその泉から、見えないようにトンネルを掘って、水路を確保したのがヒゼキヤ王でした。彼は全長533メートルのトンネルを北と南から同時に掘り始め、途中でピッタリ合ったというのですが、それは当時の土木技術が優れていたというよりも、ほとんど偶然でした。あえて言えば、神の業でした。当時の人はビックリして、出会った場所に碑文を遺しています。ほとんど高低差のない水路ですが、今もゆっくり水が流れています。仮庵祭のことを覚えていますか。仮庵祭の期間、神殿の次に賑わっていたのがシロアムの池でした。7日間の祭りの間、祭司たちが水を汲みに通ったのがこの池だったからです。 イエスは言われました。「シロアムの池に行って洗いなさい。」これはある種の言葉遊びと言えます。シロアムという言葉を使って、イエスは御自分が一体何者であるかと言うことを教えておられます。盲人は、神殿の近くで物乞いをしていたと思われますが、イエスの言葉に突き動かされるかのように立ち上がり、シロアムの池まで、1キロほど移動しながら、一連の出来事を思い巡らしました。 神の業がこの人に現れるためであるとの発言。地に唾をし、土をこね、私の目に塗られた行為。そして、シロアムの池に遣わされていること。シロアム・・・。遣わされた者・・・。シロアムの池の水は、地から湧いているのではなく、遠くギホンの泉から流れてくる水。送られてくる水。遣わされた者。・・・やがて来られる救い主は、神のもとから遣わされて来る。救い主が来られる時、盲人の目は開けられると預言者が語っていると聞いている。もしや、あの方が救い主なのだろうか・・・。そう言えば、仮庵祭りの時、祭司たちがこう言いながら水を汲んでいた。「あなたたちは喜びのうちに、救い主の泉から水を汲む。その日、あなたがたは言うであろう。『主に感謝し、御名を呼べ。』」シロアムの池に到着した盲人も、そう口ずさみながら、両手いっぱいに水を汲み、顔を洗い始めた。「主に感謝し、御名を呼べ」と。すると・・・。 今週も大切なことを大切に。