土の器

宮本牧師のブログ

モーセが荒れ野で蛇を上げたように

人が新たに生まれるという問題について、イエスモーセの時代に起きた故事を引用し、律法の教師が「どうして」と答えなければならなかった問いに答えます。それが民数記21章の出来事です。 エジプトを脱出し、紅海を渡った後、40年荒野をさ迷ったモーセイスラエルの民は、ついに約束の地のそばまで来ていました。ところがモーセは主に導かれ、ホル山を出発し、エドムの領土を迂回したのです。もうそこに約束の地が見えているのに、遠回りを始めたということです。民の不満は爆発し、モーセに食ってかかります。「我々を荒れ野で死なせるつもりか。もうあなたにはついて行けない」と。すると神は炎の蛇を送って彼らを罰せられます。恐ろしい神の裁きです。民は悲鳴を上げ、モーセに救いを求めました。神はモーセに青銅で蛇を造り、どこからでも見えるように、その蛇を旗竿の先に高く掲げよと命じました。もし蛇にかまれた者がそれを見上げれば命を得るというのです。モーセはすぐに青銅で蛇を造り、旗竿の先に掲げました。そして、旗竿の先に掲げられた青銅の蛇を仰いだ者は命を得たのです。 イエスはニコデモにこのイスラエルの故事を思い出させながら、罪という暗闇を持った人を新たに生まれさせるために、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」と語られました。「人の子」とは、聖書に約束されている救い主メシアの称号のひとつですが、イエスは好んでこの暗号のような言葉を使われました。「上げられねばならない」という言葉にも含みがあります。ヨハネ福音書に何度か見られる表現ですが、それはいつも十字架を指していました。しかも、ねばらないですから、偶然ではなく、神の必然において、そうならなければならないと言っているのです。 夏の終わりに病と闘いながら救いの恵みにあずかられた婦人が天に召されました。 昨日、ICUの病床で、洗礼をお受けになり、その1時間後、主の許に召されて行かれました。 備えたもう主に感謝。今日明日と葬儀です。主の平安と豊かな慰めを祈りつつ。